こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

それ以上でも以下でもなく@映画版「CATS」

ミュージカル「CATS」というのは、不思議な演目でして、ミュージカルはそれほどでもないけれど「CATS」だけは好き、とか、「とにかくCATSファン」という方が多く存在する作品なのです。

一方でミュージカルオタク層の中には「CATSとライオンキング、どちらがマシ?」という議論が成り立つ、「嫌いじゃないけど、特に好きでもない。ちょっとつまらない」と感じている人も多い作品だったりもします。

ちなみに、わたしは後者。

昔、仲間内で「CATS派かライオンキング派か」を問うたときには、10人くらい中、わたしともう1人だけが「ライオンキング派」で、残り8人ほどは「CATSのがまだマシ」という回答を得たことがあります。

「CATS」派の意見としては、とにかく「曲が好き」。

これは反論するところもありません。

アンドリュー・ロイドウェバー最盛期の曲たちは、とにかく名曲ぞろい。

代表曲「メモリー」はミュージカルを知らなくても、この曲だけは知っているという人が多いことでしょう。


Cats Musical - Memory

 

さてそんな「CATS」が流行りにのっかり「ミュージカル映画」になりました。

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昨年も軒並みディズニーミュージカルが映画化されていたのですが、タイミングを逃してまだ見ないままなのに、この映画版「CATS」を見に行ったのにはわけがあります。

それは・・・あまりにも酷評されていたから!

もともと先行ヴィジュアルの「白猫」がかわいくてダンスもうまいなあ、と心惹かれていたのに、まさかの酷評で逆に「いったいどんな映画になっているのか」と興味シンシン!


Cats – Official Trailer (Universal Pictures) HD

 

そして見た感想は一言でした。

「期待以上でもなく期待以下でもない」

つまり舞台の「CATS」を見たときとほぼ同じ感想を抱きました。

 

宗教的だという意見も見かけたのですが、とりわけそれが舞台版より強調されているとも思いませんでした。

原作はT・Sエリオットの詩集『キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法』(The Old Possum's Book of Practical Cats)。

 

キャッツ (ちくま文庫)

キャッツ (ちくま文庫)

 

 

読んだことがないので、どうなっているのか分かりませんが、詩集というところからも、おそらくストーリーらしいストーリーはないと推測しています。

 

ミュージカルは一匹ずつ猫が紹介されていって、最後に「ジェリクルキャッツ」が選ばれる、だけの物語です。

そして、それを歌とダンスで見せるショーです。

この「ジェリクルキャッツ」が一匹だけ選ばれ、転生できる、というところが宗教的に感じられる点なのだと思うのですが、それは映画版に限ったことではありません。

ただ映画では、白猫「ヴィクトリア」が主人公&ナビゲーター的に登場します。

野良猫になりたてのヴィクトリアに、周りの野良猫たちが「ジェリクルキャッツとは何ぞや」というところをセリフで説明していくのです。

この演出が「ジェリクルキャッツに選ばれるためにがんばる」という構図が強調されて、より宗教的に感じられたのかなと思います。

そして酷評の要因のもう1つ。

人間が演じるネコがグロすぎる、という意見。

これはわたしは「映画の方がアリ」と思いました。この辺は好みの問題ですね。

わたしが「CATS」より「ライオンキング」派の要因がここなんです。

わたしは「舞台版CATSの衣装とメイク、つまりヴィジュアルがダサい」と感じてしまうのです。

映画版CATSのヴィジュアルがとくべつ優れているとは思いませんが、わたしにとって少なくとも舞台版よりマシ。

特に上記の「メモリー」を歌うグリザベラのヴィジュアルが映画の方が断然よかったです。

ソバージュのカツラはないし、毛皮のコートはあったけれど、それよりも毛並みのボソボソさが現在のグリザベラを物語っていて好きでした。

さらに演じているジェニファー・ハドソンがいい!

さすがミュージカル映画「ドリーム・ガールズ」で鮮烈なデビューをしただけあります。


Jennifer Hudson - And I Am Telling You I'm Not Going

 

舞台版は20年以上も昔に、大阪とロンドンで計3度くらい見たことがあるのですが、グリザベラ役は全員「かなりおばさん感」があった記憶なんです。

でもジェニファー・ハドソンは「いい女感」がまだ残っていて若く見えた。

グリザベラの「一瞬の栄光」と現状をイメージできたからこそ、「メモリー」の歌詞が沁みました。

あのボサボサで抜けおちている部分も見えるカラダに「touch me」と訴えられる切なさは迫るものがありました。

 

あと映画版の方がよかったのは、長老猫オールドデュトロノミーがジュディ・デンチが演じていた点です。

舞台では男性が演じているのしか見たことがなかったので、「そうだよね、オールドデュトロノミー、別にメスだっていいんだ」と新たな発見。

ジュディ・デンチの圧倒的な重厚感、運命の支配者感がすごくマッチしていました。

 

ところでわたしが予告から気になっていた白猫・ヴィクトリア。

演じているのはフランチェスカ・ヘイワードさんという英国ロイヤルバレエ団のプリンシパルダンサーだそうです。

そりゃあもう動きがいちいちキレイ✨

ゆったりとしたデュエット・ダンスシーンなんて夢見てるのかってほど美しかったので、映画版に言いたいことは一つだけです。

 

もっとダンスをそのまま見せてほしかった・・・!

 

せっかく「ダンスでも魅せる数少ないウエストエンドミュージカル」なので、ダンスシーンをいっぱい、これでもかってくらい見たかったんです。

むしろ、そこだけが期待だったのに、見事に裏切られました。

 

それでも劇場猫ガスをイアン・マッケランが演じる贅沢感は期待以上。

 I have played in my time every possible part

 ってイアン・マッケランが歌うんですよ!なんちゅうホンモノ感!

(↑CATSの歌の中で「劇場猫ガス」が一番好きなので、大興奮!)

 

そんなわけで舞台版も映画版もたいくつなところはたいくつだし、好きな曲、好きな猫(推しネコ笑)のシーンは楽しい作品でした。

そして個人的に冒頭のピカデリーサーカス「エロスの像」に群がる野良猫たちのシーンに爆笑。

まさかの大ロングラン作品「The Mousetrap(ねずみとり)」の看板が野良猫たちとともに大きく映し出されるとは!

 

ということで、推しネコ、推し曲がある方は一回見といても損はないと思います。

描きたかったものの違い@劇団四季「ノートルダムの鐘」

1/13(月・祝)13:30~ 京都劇場

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スタッフ・キャスト表はこちら。

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わたしがロンドンで3度、来日公演で1度見ているフランス・ミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」とは原作は同じでも違う作品です。

 

Notre Dame de Paris [DVD] [Import]

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  • 出版社/メーカー: Sony Music France
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英語タイトルは「Hunchback of Notre dame」となっているので、日本語訳として有名だった「ノートルダムのせむし男」が英語になっている感じです。

 

 アラン・メンケンが作曲しているので、ディズニーアニメ版「ノートルダムの鐘」をミュージカル化したのかと思っていたら、一部同じ曲は使っていても歌詞が違ったり、キャラクター設定や物語の結末も違っていたりするようです。

 

 ストーリーはこんな感じ。

聖職者を目指すフロローの弟は放蕩者で、ジプシーの女性と駆け落ちし、子どもをなす。

死の間際、駆け付けたフロローにその子どもを預けるが、その子どもは醜い容姿をしていたため、フロローは「出来損ない」という意味のカジモドという名前をつけ、ノートルダム大聖堂の鐘楼に閉じ込め、鐘衝きとして育てる。

司教となったフロローは、外の世界は醜いカジモドにとって危険だと言い聞かせ、自分だけが保護するものだと洗脳する。

しかし外の世界への憧れを募らせるカジモドは、ある祭りの晩、大聖堂を飛び出しパリの町に出て、ジプシーの踊り子・エスメラルダと出会う。

エスメラルダのすすめで、とある祭りのイベントに出場したカジモドは、その容姿の醜さを民衆からあざ笑われ、暴力にあい、大聖堂に逃げ帰る。

このような結果になってしまったことに心痛めたエスメラルダはカジモドに謝罪しようと大聖堂へやってくる。心を通わせるカジモドとエスメラルダ。

一方でエスメラルダの踊っている姿を見たフロローも、大聖堂の護衛隊長フィーバスもエスメラルダに惹かれ・・・。

 

正直フランスミュージカル版の「ノートルダム・ド・パリ」を見た時には話しは一切分からず、その演出方法のせいもあって、主要キャラクターのストーリーには何の関心も抱かずに、ただ目の前で繰り広げられる夢のようなパフォーマンスに心奪われていたのです。

来日公演のときにやっと内容を知り、友人の「フロローが粘着質な恋心と宗教心のはざまで揺れ動く気持ちを見るのがいい」というような言葉にそんなもんか、と思った程度でした。

しかしこのスコット・シュワルツ版ミュージカル「ノートルダムの鐘」で描かれるのは、愛憎の紙一重、正常と狂気の紙一重ではなくて、「怪物と人間」の紙一重でした。

演出からして、前段が終わってカジモド役が登場するとその顔に墨を塗り、目の前で醜く変身させるのです。

そして「怪物と人間 どこに違いがあるか」というような問いかけがあります。

その後、起こる事件や駆け引きを通じて「怪物」と「人間」の違いは何なのか、を考えさせるというのは「BAT BOY the musical」を思い出させるなあと思っていたら、なんと「BAT BOY the musical」も同じスコット・シュワルツの演出だったのですね。

 

Bat Boy

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これもたまたまロンドンで見て、日本版も見たのですが、こちらの最期の絶叫「I'm animal」に比べると、「ノートルダムの鐘」は全体に柔らかい印象を受けました。

そしてこの柔らかさ、問題提示の分かりやすさがこの作品を日本で受け入れやすくしたのではないかと個人的には思っています。

石像たちがたびたび登場人物の心情や、ストーリーの展開をセリフで説明してくれるという小劇場演劇っぽい手法を取っていて、取り立てて面白い演出方法ではないのですが、これも「わかりやすい」という意味では効果をなしている気がします。

そして「何をもって人間というのか」というのはスコット・シュワルツ氏の永遠のテーマで、観客に提示したい問題なのだな、というのがよくわかりました。

その辺に好き嫌いはでそうですが、アラン・メンケン&スティーヴン・シュワルツコンビの音楽がとにかくいい!素晴らしい!

フランスミュージカル版「ノートルダム・ド・パリ」の音楽が個人的にあまり好みではなかったというか、あんまり耳に残らなかったのですが、こちらは聞いている途中でも「この曲好き」と思わせる力がありました。まあこれももちろん好みの問題です。

そして好みというと、前述した友人のフロローに対する解釈、これは完全に好みがわかれるところではないでしょうか。

 

この「ノートルダムの鐘」のフロローはどこにも同情する余地のない人物です。

エスメラルダへの恋も恋と言っていいのか。自分の中に湧き出た感情を自分の知っている範囲でしか解釈できず、都合の悪いことは全部相手のせいにする。

あげくの果てに権力行使して、罪人に仕立て上げるさまはゾっとしました。

また演じられた野中万寿夫さんの見た目がグレイヘアで真面目一直線のおじさん、という感じだったので、今まで見た色気を残した「男」としてのフロローとは一線を画していたのも、そう感じた理由かもしれません。

こういう狭い考え方しかできない人物が、絶対的に自分は「正しい」と信じて疑わない人物が、権力を握ることへの恐怖感。

スコット・シュワルツ氏は「何が人間で、何が怪物か」の「問い」をフロローという人物に課したのかもしれません。

その分、エスメラルダへの愛憎で揺れ動く人間らしさ的なものは全く感じることはできず、結果的にエスメラルダそのものが「ファム・ファタール」的な位置づけにならなかったのは残念ではあります。

それでもエスメラルダを演じた松山育恵さんの踊りが美しくて、「エスメラルダの踊りに惹かれた」という部分がものすごく納得できたのがよかったです。フランスミュージカルは分業制ですから、歌のあるエスメラルダは歌手が演じることが多く、その「踊り」を魅せられる部分が少なかったことを思うと、「エスメラルダの踊り」を魅せてこれたのは、原作にも近くすばらしかった点でした。

 

ノートルダム・ド・パリ」と違って、タイトルも「ノートルダムのせむし男」であるこの「ノートルダムの鐘」の主役はカジモドです。

その分エスメラルダやフィーバスのそこそこに込み入った恋愛事情を描かれなかった部分は残念ですが、カジモドの寺元健一郎さんがまたよかった。

元々の素顔もイケメンの部類だとは思うのですが、醜いカジモドを演じているときの方がずっとかわいらしく、愛おしい存在だったのです。

きれいはきたない、きたないはきれい。

カジモドという人物にはそういう部分が求められると思うのですが、そこを軽々クリアしていて、とても惹かれました。

 

フランスミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」とこのスコット・シュワルツ版「ノートルダムのせむし男」どっちがいいか、というのは、「オペラ座の怪人」と「ファントム」どっちが好きか、と同じかもしれません。

個人的にはフランスミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」の振り付けとパフォーマンスがもたらした幻想的な光景ほどには、この「ノートルダムの鐘」には夢中になれる部分はありませんでしたが、日本ではこちらの方が好きな人が多いのではないかと思いますし、十分に興味深い作品でした。

過ぎた夢と恋の果て@宝塚雪組「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」

1/4(土)15:00~ 宝塚大劇場

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ヌードルス 望海 風斗  
デボラ 真彩 希帆   
マックス 彩風 咲奈  
ジミー 彩凪 翔    
キャロル 朝美 絢  
ファット・モー(壮年期) 奏乃 はると  
コックアイ 真那 春人   

サム 煌羽 レオ
ペギー 愛 すみれ  
チャン・ラオ 天月 翼  

ファット・モー(少年期・青年期) 橘 幸  

ニック 綾 凰華

エヴァ 彩 みちる

パッツィー 縣 千

ドミニク 彩海 せら
 

原作 ハリー・グレイ/セルジオ・レオーネ監督による同名映画
脚本・演出 小池修一郎
作曲・編曲 太田健

原作映画はこちらになります。

 

もちろん、わたしは何の予備知識もなしに見に行きました!←いばることではない・・・。

でも何の予備知識がなくても、ちゃんと「宝塚歌劇」になっています。

そんなあらすじはこちら。

 

1950年代アメリカ・ニューヨーク。

ファット・モーが経営するダイナーにヌードルスがやってくる。

かつて彼はユダヤ系移民でニューヨークのローワーイーストサイドで生きていた。

しかし今は違う名前で田舎で細々と暮らしているという。そんな彼のもとに大金と妙なパーティーの招待状が届いた。その理由を知るべくかつての故郷に戻ってきたのだった。

鍵は彼が捨てた人生にあるかもしれないと、過去を振り返るヌードルス

貧乏でどうしようもなかった少年時代(1920年代)。友情に恋にまっしぐらだった青年時代(1930年代)。

彼の人生が浮き彫りにされていく・・・。

 

観劇後に映画を見たのですが、映画ではこの3つの時代を行き来します。

しかし舞台は1950年代から過去に戻り順にヌードルスの人生を追い、1950年代に戻ってきます。

この辺の編集作業はさすがです。

特に第一部は圧巻。

小池修一郎先生の輸入ミュージカルではない一本モノでここまでショーアップされた作品を見たことがない気がします。

ヒロインのデボラはミュージカルスターになることを足掛かりにいずれ一国の王妃になることを夢見るキャラクターなのですが、彼女がみごとにミュージカルスターになったシーンの見せ方がすばらしい。

さらに「ショースター」であることをこれでもかと見せつけるまあや(真彩希帆)ちゃんの存在感と華と歌唱力がすごい。

ここだけでも圧倒されるのに、その後にマックスたちが経営する潜り酒場(スピークイージー)「クラブ・インフェルノ」の歌姫・キャロルとショーガールズの歌い踊るシーンが続くあたりが、本当に魅せられました。

キャロルは男役であるあーさ(朝美絢さん)が演じているのですが、音域的に女役の方が声が出やすいのか、歌も歌姫のまあやちゃんに劣らず魅せてくれたのです。

宝塚歌劇という特性上、仕方ないこととはいえ、女役が真ん中のショーシーンが続く、というショーをほぼ見ることができないので、この部分だけでも個人的にはすごい、と思うのです。

1930年代アメリカのショービズ界は本当にこんな感じじゃなかったんだろうか、と思わせる空気感を久々に味わいました。

何より一部のすばらしい点は、ヌードルスの恋を主軸に描いたこと。

子どもの頃からデボラが好きで好きでたまらなくて、とある事件をきっかけに刑務所に入ることになり、出所してもデボラへの恋心は募るばかりであることをしっかりと見せたからこそ、一部のラストシーンの「ヴィジュアル」が魅せるのです。

もちろん「男ってなんちゅうバカ!」と心から思いました。

もうほんと腹の底から。

怒りさえわくぐらい。

それでもヌードルスを演じるだいもん(望海風斗さん)の絶唱に「まあ、そんだけ好きだったんだもんな」とちょっとだけ同情できるくらい仕上げてきたことを心から評価したいです。

そんなわけで一部はいい意味でメロドラマに仕上がっているんです。ギャング映画をショーアップされたメロドラマに変換したのは「宝塚歌劇」として正しい選択だとわたしは思っています。

(正直「壬生義士伝」もこのくらいの変換が必要だったと思います)

 

だからその一部に比べると二部が弱かったのが残念と言えば残念。

幕開きのハバナと「サヨナラ禁酒法」のショーアップさ加減はよかったのですが、ここからはヌードルスとマックス、二人の人生の選択とその分かれ道となる大きな事件を描いていくので、どうしても暗い。というか二回目ですけれど「男ってバカ」。

それでもマックスの方は悲哀性をもって「バカ」の説明があったのですが、ヌードルスに関してはどこか中途半端なんです。

まあ映画を見ると一部のヌードルスをああいう風に描いてしまったので仕方ないのですが、そこを信仰心の方に傾けてしまったがゆえの歪みだったのかなあと思います。

とはいえ、アヘン窟での悪夢のシーンの作り方は、これを一本モノにした意味があるなあと感心しましたし、人生の帳尻というか、何が幸せで何が不幸かなんて本当にわからない、という小池先生が描きたかったところは、プログラムを読まずともちゃんと感じることができました。

まあこの辺はわたしが多感な時期に「ヴァレンチノ」と「華麗なるギャツビー」の二本をむさぼるように見たから、というのもあるかもしれません。

ヌードルスの生きる時代 | 雪組公演 『ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

(データないのは重々承知ですけれど、スキャンとか方法あったと思うので、初演のポスターも掲載してほしかったです)

 

何より1950年代の再会のシーンとセリフで、ああそう言えば一部の子ども時代にプレゼント持っていたな、と思い出させたところがすごくいいです。

(そして「壬生義士伝」でもこのくらい見せられただろう、と思わずにはいられませんでした。けっこう引きずっているな、わたし)

子ども時代からずっと交差している二人の人生。その選択と結末。どっちも「バカ」です。でも貧民街から生き抜き、大それた夢を必死につかもうとした生きざまは切なくもありました。

あれほど正しく努力を重ねて、駆け上がっていったデボラでさえ、最終的に戻っていくところはそこなのか、と思うと哀しくもありました。

その一部始終を見届けたヌードルスが今、何を思いここを立ち去っていくのか、その余韻が公演を重ねるごとに出てくることに期待します。

 

残念ながら1/4の時点では、まだだいもんの演技はそこまで追いついていなかったです。でも圧巻の歌唱力でその辺をねじ伏せてきました。これがトップスターの力です。

さき(彩風咲奈)ちゃんのマックスも、その二面性を自然に身体の中に取り込むにはまだまだという感じでした。けれどだいもんの横に立ち、張り合える存在感が備わってきていました。そして何より子ども時代がかわいい!だからデボラの選択もなんとなく理解できるのは大事。

デボラのまあやちゃんとキャロルのあーさはいうことなしですね。

華、美しさ、そして歌と魅せるべきところは魅せましたし、デボラのまっすぐな気性が「人を惹きつける」ものであること、そのヒロイン性を高めていました。

 

ジミーのなぎしょ(彩凪翔さん)、よかったです。

まさかなぎしょがここまでキーパーソン的なわき役をしっかり演じるとは。

そして映画を見ると、この役をこう描いたのも面白いです。

そしてニックの綾凰華ちゃんがかわいかった。かわいくていい人の役で、ちゃんと印象に残ってきたあたりが、美貌の若手としてちゃんと活躍してましたし、逆にワルを演じることが板についてきた煌羽レオも、とてもいい仕事をしていました。

 

こういう話ですから、ヌードルス、マックスとつるむコックアイ、パッツィ、ドミニクあたりはすごく美味しいかわりに娘役さんが割を食うのがかわいそうではありました。

エヴァ(映画の字幕ではイブ)もちょろっと登場しただけなので、ペギーあたりは映画くらいに役割分担させてもよかったように思います。まあどう描くかが宝塚歌劇の難しさではあります。

だから総括すると、本当にあの映画をよくぞここまで「宝塚歌劇化」したな、と思うのです。

これはギャングの物語ではなく、1人の男の物語で、その男が愛した女と友人の物語なのです。だから映画の人物像の在り方が好きな方には向かないと思います。

 

映画は映画で映像美がすごかったです。そしてロバート・デニーロが漂わせる雰囲気がめちゃくちゃかっこいい。

でも本当にギャング映画、なのですよね。

ヴァイオレンスはともかくとして、女に対する扱いがひどい。

舞台を見ながらも「男ってバカなの」と何度も思ったのですが、映画は「バカ」なんて柔らかい言葉では済みません。長い映画なのでインターミッションがあるのですが、ここでインターミッションに入られてもどういう気持ちでいたら・・・くらいの怒りしかありませんでした。

(おかげで後半は全くヌードルスが格好よく見えなかった。この犯罪者!みたいな気持ちでいっぱいでした涙)

ここで怒るか、しかけた方が悪いと思うかは人それぞれかもしれないですけれど、今ならかなりの問題になりそうです。

ただ映画に描かれていたマックスとヌードルスの友情というか愛憎というか、そういった複雑な感情から生まれたセリフで、使用してもよかったのにな、という部分はありました。

でも総じて「宝塚歌劇」としてはこれでよかったと思っています。

昔むかしアメリカで、こんなバカな男たちがこんな人生を送りましたよ。

そんなほろ苦さを味わえる作品でした。

2019かんげき振り返り

さて今年もこの時期がやってきてまいりました。

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(↑なんとなくオープニングイメージ画像笑)

毎年ここに書き出すとかかった費用がぼんやり見えてくるので、ちょっと…な気分になるのですが、記録して振り返っておきます。

★12月

新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」昼の部、夜の部

★10月

A New Musical「FACTORY GIRLS~私が描く物語~」×2

来日公演「ボディーガード」

劇団☆新幹線「いのうえ歌舞伎《亞》けむりの軍団」

★8月

杜けあき40周年記念コンサート

★7月

柚希礼音ワンマンショー「LEMONADE」

日本版「ピピン

KERA MAP「キネマと恋人」

★6月

宝塚雪組壬生義士伝」「Music Revolution」

シアターコクーン・オンレパートリー「ハムレット

吉崎憲治&岡田敬二「ロマンチックコンサート」

★5月

日本版「キンキーブーツ」再演

 ★4月

宝塚月組夢現無双」「クルンテープ

★3月

キューティー・ブロンド 再演

宝塚花組「CASANOVA」

★2月

ベルサイユのばら45 ×2回

 

合計16本・・・しかもベルばら45とFACTORY GIRLSは2回行き、ナウシカは1本に見えつつ、実質2本分。

そして合間に花詩歌タカラヅカも追いかけ、NT Liveやら、ゲキシネドクロ6本制覇やらやっていたおかげで、完全に予算オーバーしております。

来年もうちょっと引き締めます、はい。

 

とりあえず今年の個人的な各賞。

★作品賞

A New Musical「FACTORY GIRLS~私が描く物語~」

今年、最もわたしを勉強させた作品。

ブログも1番いろいろ調べて書きました。

stok0101.hatenablog.com

 作品賞を「ナウシカ歌舞伎」じゃなくこちらを選んだのは、日本では「まだ誰も知らない作品」だったこと。そしてアメリカでも「ほとんど知られていない作品」でした。

そしてそういう作品を日本で新作として作る、という新たな日本発ミュージカルの可能性を広げたというところもかっています。

でも何よりこの作品が持っているメッセージ性が好きでした。

おかしいと感じることを声に出しておかしいと言い、そのために暴力ではなく、紙とペンと友情で闘うこと、の意味を考えさせてくれる作品でした。

 

★演出賞

新作歌舞伎「風の谷のナウシカ

これ以外ないでしょう!

あのマンガ全7巻を歌舞伎にしたんですよ!

stok0101.hatenablog.com

みごとな歌舞伎とナウシカの融合。

イヤホンガイドのおかげで、どうしてそういう演出にしたのか、歌舞伎の持つ意味合いも一つ一つ知れて、本当すごい、しか言葉がありませんでした。

その上であんなに美しい世界を、カッコいい登場人物たちを息づかせたのが素晴らしいです。

 

脚本賞

KERA MAP「キネマと恋人」

ナウシカ歌舞伎と比較すると面白いのですが、こちらは映画原作を舞台化してるんですよね。

stok0101.hatenablog.com

長さ的に当たり前なんですけれど、ナウシカ歌舞伎はあの原作マンガのどこをピックアップするか、という作業で本当に難しかっただろうなあと思うのです。

しかし序幕は、脚本的には、ほぼほぼアニメ映画とマンガ原作と同じでした。

それはナウシカ歌舞伎にとって重要なことだったので納得の選択でした。

でもそれがあったからこそ、この作品の脚本のすごさを改めて痛感したのです。

「映画」ならではのすごさ、「映画」というエンターテインメントの意義をまざまざと見せつけたすごい原作映画を、舞台化するにあたって「舞台」だから伝わることに書き換えてきたところ。

ポーの一族」を見たときに、ああ舞台化するということはこういうことか、と思ったのが、書かれている台詞でも、役者が言うことによって、感情が乗るということでした。

マンガや小説はそれを自由に想像できるのがいいところです。

けれど読み手によって想像できず伝わらないこともある。

ポーの一族」が特にわたしは全くもっていい読み手じゃなくて、マンガから読み取ること、想像することができなかった哀しみを、役者が演じてくれることではじめて心に響いたのです。

舞台の魅力ってそこじゃないかな、とナウシカ歌舞伎を見てやっと気づきました。

「キネマと恋人」でだだ泣きしたのは、いろいろなことが目の前で繰り広げられ、リアルに伝わってきた結果で、それを伝えることが「舞台」なのだと、「映画」とは違う「舞台」ならではの魅力を描いてきたところが、さすがだなと思わずにはいられなかったのです。

 

★主演俳優賞

満を持してFACTORY GIRLSのソニンに。

この荒削りの作品をここまでの完成度に導いたのは間違いなく彼女です。

このハリエット役を見ながら「血の婚礼」で花嫁役を演じていたソニンを思い出しました。

あの時ソニンの演技に圧倒されながらも、あまりにも100%入り込みすぎている、もっと洗練されたらすごくいいだろうと書いた記憶があるのですが、その洗練の結果をこのハリエット役で見れた気がしています。

徹底した調べと緻密な計算の上で、ハリエットに乗り移ったソニンの演技とペーパードールの歌、圧巻でした。

 

ということで、こちらのソニンさんのFACTORY GIRLS スペシャルページもぜひご一読ください。

SONIM’s Review Factory『FACTORY GIRLS~私が描く物語~』編 | アミューズモバイル

あー早くローウェル・オウファリング買って、ソニンさんが答えてくださったところだけでも読まなきゃ。

 

★助演俳優賞

風の谷のナウシカ中村七之助クシャナ殿下に。

いろいろ考えたのですが、わたしが七之助ファンということを置いておいても、新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」を熱狂に導いた功労者じゃないかと思ったのです。

本当の1番の功労者は菊之助さんであることはよく分かっているのです。

まずこれをやろうとしたことが素晴らしい、やってくれたことが素晴らしい。この2点だけでもものすごい情熱がなければできないことだと思います。

その上であのナウシカを演じて作り上げて魅せたこと、本当にすごいです。

ただやはりマンガやアニメ原作のものって、観客はビジュアルから入りがちなわけですよ。

登場した瞬間に「クシャナ殿下」と思わせたそのビジュアル力をわたしは今回あえて評価したいと思うのです。

そして男性ばかりの中で男勝りなクシャナという女性、を演じることはそうたやすくもないとも思います。

今回のクシャナ女形独特の作った高い声を出すこともなく、割と低めの声音だったのに、それでも一度もクシャナが男性に見えなかった。

所作や着こなしも女性らしさを強調するものはなかったのに、クシャナが皇女であること、さらには臣下を魅了する人物であったことを魅せてきたところ、をわたしは評価したいと思っています。

 

舞台美術はもちろんナウシカ歌舞伎に。

あんなに美しいセットを見たのははじめてです。

音楽はFACTORY GIRLSに。

大学の卒論の課題でこういうのがあるところで、やはり日本は舞台に全体に対してまだまだだなあと思いました。

演劇教育、本当、やりませんかね、日本。

 

なんか最後はグチっぽくなってすみません。

でも2019年は「ベルばら45」「吉崎&岡田コン」からはじまり、杜けあきさま芸能生活40周年ということで、本当に杜けあきさま漬けになれた、かつてない幸せな一年でした。

 

30年前、杜さんに出会ってなければ、舞台を見る生活はおろか、演劇を学ぶ機会も、そのためにロンドンに行く機会もない人生だったはず。

杜さんと小池修一郎先生からもらった人生だと思っています。

 

そんなわけで、2020年は今年ないがしろにしすぎたくらい見なかった宝塚歌劇を観に行きたいなあと思っています。

観劇初めは雪組小池修一郎先生の新作から。

何気に順調に5月までの観劇がもう決まっていたりするので、お財布との相談しながら、今さらですが360°アラウンドシアターも体験したいです。

全てにおいて壮絶な作品@新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」

12月14日(土) 11:00~(昼の部)13:00~(夜の部)新橋演舞場

作 漫画「風の谷のナウシカ宮崎駿

脚本 丹羽圭子/戸部和久

演出 G2

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[昼の部]

序 幕 青き衣の者、金色の野に立つ

二幕目 悪魔の法の復活
三幕目 白き魔女、血の道を征く 

[夜の部]

四幕目 大海嘯
五幕目 浄化の森
六幕目 巨神兵の覚醒
大 詰 シュワの墓所の秘密

[配役]

ナウシカ 尾上 菊之助
クシャナ 中村 七之助
ユパ 尾上 松 也
ミラルパ/ナムリス 坂東 巳之助
アスベル/口上/オーマの精 尾上 右 近
ケチャ 中村 米 吉
ミト/トルメキアの将軍 市村 橘太郎
クロトワ 片岡 亀 蔵
ジル 河原崎 権十郎
城ババ 市村 萬次郎
チャルカ 中村 錦之助
マニ族僧正 中村 又五郎

王蟲(声) 市川 中 車

セルム/墓の主の精 中村 歌 昇
道化 中村 種之助
第三皇子/神官 中村 吉之丞
上人 嵐  橘三郎
ヴ王 中村 歌 六

墓の主(声)中村 吉右衛門 

12/22令和最初の「M-1グランプリ」決勝戦かまいたちが「となりのトトロを全く見たことがない」自慢をするネタをやっていました。

同じくわたしも実は「風の谷のナウシカ」と「天空の城ラピュタ」を、レンタルすることもなく、繰り返される再放送の波をくぐり抜け、全く見たことがありませんでした。

そして3、4年前にはじめて「風の谷のナウシカ」を見る機会を得たのでした。

合わせて原作マンガ全7巻も読みました。

 

映画の感想→腐海の底がサグラダ・ファミリアの内観みたいで美しい。あとテトかわいい。

マンガの感想→読みづらい。よう分からん。

 

われながらヒドイ。

なのになぜこの歌舞伎版に挑んだのか。

中村七之助クシャナを演じるというのが大前提としてあって、そのうえで「あんなによう分からんかったマンガ7巻を昼夜通しでやるという狂気じみた試みはなかなかない。これは演劇ファンとして見るべきでは?」という訳の分からない義務感にかられた結果でした。

ちなみに先に言い訳しておくと、わたしの「歌舞伎知識」はほぼ初心者です。古典をイヤホンガイド付きで何度か見たことがある程度。

ましてや映画と原作マンガを一度見たきり、読んだきりの「ナウシカ」に対する知識はないに等しい。

そこでこの演目を見に行く前に下記ナウシカ解説動画を見て、

https://www.youtube.com/watch?v=_nrIY_5XhrA

https://www.youtube.com/watch?v=rfvAjSN6dMU

原作7巻を読み返し、当日を迎えました。

ちなみに同行した友人たちも試験勉強のように毎晩遅くまで原作再読に必死になっておりました。

この辺りからして、この演目の壮絶さが伝わるかと思います。

風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」

風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」

 

壮絶と書きましたが、われわれの「壮絶」は「すさまじい」を意味する誤った使い方です。

けれど上演されたものは「きわめて勇ましく激しいこと」という本来の意味で「壮絶」でした。

 

12/8(日)の公演で主役・ナウシカを演じている菊之助さんが怪我をされたというニュースが飛び込んできました。12/8の夜の部はキャンセルになったのですが、翌12/9から骨折したまま復帰されました。しかしながら、わたしが見た12/14の時点でも一部場面が割愛されたバージョンでした。

そんなわけで、割愛された時間配分がこちら。

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割愛されてこれですよ。

しかもこれを12/6~25まで毎日休みなくやってるんですよ。

これを壮絶といわず、なんといおう。

そして繰り広げられた舞台もまさに壮絶でした。

 

まず昼の部。

序幕のはじまりは口上で、ご挨拶とストーリーの中で大切なキーワードが紹介され、このタペストリー幕が披露されました。

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このタペストリー幕だけでも一級の芸術品。見る価値があるのに、この幕が開き、映画ナウシカの音楽がお囃子方によって奏でられると、世にも美しい「腐海」が舞台に現れたのです。

三重になった腐海の絵と紗幕の間をうごめく虫たち。

紗幕にライトの胞子が降り注ぎ、それはもう息をのむ美しさでした。

故・蜷川先生がおっしゃっていた「冒頭で観客をその世界に取り込むことが重要」という言葉が大好きなのですが、歌舞伎ナウシカはまずその第一関門を、今までに見たことのない圧倒的なセットの美をもって軽々飛び越えてきたのでした。

 

見てる方はもう語彙力皆無。

 

腐海あった!

王蟲いた!

クシャナクシャナ

テトかわいい!

 

とかバカ丸出しの発狂ぷりで、序幕1時間20分、引き込まれてあっという間でした。

そして、序幕で映画部分、終わりました。

来年2月にこの公演を録画したものが映画館で上演されるのですが、

新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』ディレイビューイング|ローチケ[ローソンチケット] 映画チケット情報・販売・予約

これを見ようかな、でも両方は価格的にもしんどいな、て方は全力で「昼の部」をご覧になられることをおススメします。

というのも、もちろん序幕の美しい腐海のセットをぜひ見ていただきたい、というのもあるのですが、全体に「昼の部」の方が「歌舞伎のエンターテインメント性」を全面に押し出した演出だったからです。

二幕は水芸。本物の水が大量に使用されてあふれ出る中、大立ち回りを演じるユパさまとアスベル。一階席の前方席は水除ビニールーシートが渡され、それに必死に隠れても濡れるくらいの激しいアクションシーンです。

壮絶そのものです。

さらに有名な飛び六方も見られます。見ている方はおトクです!

 

三幕はおそらく私たちが見られなかったナウシカ出陣の激しい戦闘シーンや「メーヴェ宙乗り」も登場するはずです。

誰もが知ってる歌舞伎の大技や、歌舞伎ってここまでやるのっていう大仕掛けがこんなにいっぺんに見られる演目、他に知りません。

ナウシカファンで歌舞伎初心者にも楽しんでもらえるものにしたい、という心意気がビシビシ伝わってきます。

そうそう、イヤホンガイドもいつも以上に「歌舞伎の豆知識」を懇切丁寧に教えてくれるもので面白かったので、興味がある方はぜひ「イヤホンガイド」も借りてみてください。

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昼の部はどちらかと言うと、セットや仕掛けのすごさと七之助クシャナ殿下の格好よさに発狂して終わりましたが、夜の部は一転して、演劇としてナウシカの物語を刻んできたのです。

(4幕はじまりの演出も実に演劇的にオーソドックスで、だから歌舞伎でやると新鮮でした)

終末期を生きる人間を描いてきたのです。

 

ナウシカの原作が完結したのが1994年。

世紀末でした。

翌年には阪神大震災が起こりました。

バブルがはじけて、それまであった楽しそうな未来が見えなくなった時期でした。

それから残念なことに今の日本は変わらず自然災害に度々見舞われ、今の若者たちはわたし以上に希望の光の見えない「終末期」を生きているような気がします。

 

そんな今にリンクしたようなナウシカの世界。

舞台はマンガ全部を書くことはできませんが、人が演じることによって、マンガのシーンや感情をよりリアルに伝えることはできます。

 

戦争と混乱の中でも、儲けて楽しむ人々。

住むことができる土地が少ないのに、折り合わず争う人々。

ますます汚染されていく世界。

それに傷つきボロボロになりながらも立ち向かうナウシカ

菊之助さんが怪我をされているからこそ、傷ついてボロボロのナウシカがこれまたリアルに伝わってきました。(とはいえ骨折されているとは微塵も感じさせない演技がすごい)

一方で目の前の不満や恨みにとらわれ諍いを起こし続ける人々の感情は、わたしたち庶民のそれで、理解できるからこそ重く心にのしかかるのです。

そしてナウシカがたどり着く浄化された世界が美しければ美しいほど、感じる旧世界の人々の傲慢。

 

だんだんと重苦しくなっていく展開にぐったりしていたら、なんと大詰が連獅子になりました!

まさかの毛ぶりも見られるとは!

しかもこれがまた上手く原作の最後の闘いを表現しているんですよ!

こんな連獅子はじめて見ました。

そしてこんな闘いもはじめて見ました。

 

ここまで作った脚本・演出家に完敗。

そしてこの企画を情熱をもってプロデュースし、座長としてまとめあげ、怪我をおして最後までナウシカを演じられた尾上菊之助さんに感動。

もちろん、それぞれの役を務めあげた役者さんにも感謝。

(個人的にはミト爺がまんまミト爺でお気に入りでした。クシャナナウシカの行方を探さすくだりを歌舞伎口調にする演出も楽しかった!)

そして美しい音楽を奏でてくれたお囃子、義太夫の方々、大道具・小道具さん、お衣装さん、音響・照明スタッフ、このすごい舞台を作り上げた全ての方に、ただただもうありがとう、と言いたくなる贅沢な公演でした。

そういう公演ってそうないと思うのです。

 

ところで菊之助さんの怪我が原因で見られなかった「カイ」に乗った戦闘シーンとか、メーヴェ宙乗りとかは、多々テレビで放映された映像で保管できたし、なくても全然かまわなかったのですが、一つだけテレビで一瞬だけ映って「これ見たかった」というか、どういうシーンを表現していたのか気になるのが、 「京鹿子娘道成寺の傘」みたいなものを持って踊っているもの。

あの踊りはナウシカの何を表現したシーンだったのでしょうか。

ディレイビューイングで見られることを祈っています。

 

そしていつの日か再び、序幕だけでもいいから再演があることを期待します。

そのときイヤホンガイドのお決まりの「この後は〇〇何幕、こういうシーンへと続きます」という案内を、「うん、知ってる。初演見たもん!」と自慢げにほくそ笑む日を楽しみにしたりしています。

もはやこれで思い残すことはござらん@杜けあき×南風舞40周年記念ディナーショー

11/30(土)宝塚ホテル 琥珀の間 18:00

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出演

杜けあき

南風舞

朝峰ひかり

天羽珠紀

ピアノ

吉田優子

 

みなさんは「ディナーショー」というものに行かれたことはありますか?

宝塚ファンの方々は参加されたことがある方が多いと思いますが、なんとわたしは初めてでした。

しかも一人で参加のため、勝手がわからず始まるまではドキドキソワソワ。

そんなわけで「はじめてのディナーショー」へ行かれる方への参考にもなれば、という視点も含めながら感想をつづりたいと思います。

(感想だけでいいよ、な方は目次より「5.ショーについての感想」へジャンプしてください)

 

 1.ディナーショーの予約

 

 当初、宝塚ホテルの専門電話での予約しか今回はなかったため、発売日当日に電話しました。

開始から30分くらいでホテルにつながり、予約が可能である、とのことでしたので、夜の部を希望。

名前・住所・参加人数を聞かれるままに答え、チケット発送費用と消費税を含めた金額と、振込先、振り込む際に入力する番号の案内がありました。

電話予約の場合、ペンとノートは必須です。

そして待つこと数か月。ディナーショー当日の約1週間前にやっと待ちに待ったチケットが届きました。

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ちなみに後日杜さんのファンクラブサイトでの取扱いもはじまりました。

当日の受付を見る限り、チケットの入手ルートは「ホテル」か「各出演者経由」の二択だったようです。

 

2.ディナーショーの服装

 

友人より「結婚式二次会」くらいの勢いで行け、とのアドバイスをいただき、友人の結婚式で着たワンピースを引っぱり出して、髪も一応セットしてもらって赴きました。

実際行ってみると、年齢層的にもお着物の方がちらりほらり。

でも寒かったこともあって、「お出かけ着」くらいの服装の方が多かったです。

ただ男性は皆さんスーツだったので、「セミフォーマル」くらいを意識しておけば、とりあえず浮くことはなさそうです。

 

3.受付から入場まで

 

クロークは宴会場前に用意されていることが、ホテルクロークに案内掲示されていたので、そのまま会場へ。

この時点で開始45分前くらいでした。

コートと大きな荷物を預けて番号札を2枚もらいました。

そして本来ならばここで、受付をしてディナーテーブルの番号札をもらいます。

宴会場の前に「ホテル受付」、「各出演者経由の受付」テーブルが設けられていました。

わたしの場合「ホテル受付」で席番号をもらわなければならなかったのですが、置いてある封筒が送られてきたチケットと同じものだったため、「チケットは手にあるしな。チケットに書かれている番号で席がわかるんだろう」と気楽に開場を待っていました。

そして食事開始30分くらい前に開場。

チケット半券をドアでちぎられていると後ろの方で「お席は事前に案内図で確認ください」とのこと。

しかし、案内図まで戻っても席はわからない。

スタッフさんに確認して、ようやく「ホテル受付」で席番号券が必要なことが判明。

受付までスタッフさんが同行してくれて、席まで案内してくださり、お手数をかけてしまいました。

事前にいろいろ調べていたら、宝塚の場合「ホテル受付」より「ファンクラブ経由」の方が席がいい、という情報も出てきましたが、今回はOGということもあってか、そういうわけでもなさそうでした。

「ホテル受付」したわたしの席は二列目の真ん中より。各テーブル6席設けられていたのですが、その中でも一番見やすい席でした。

それでも同テーブルの方は双眼鏡をもっていらしたのに驚きました。

とりあえず双眼鏡も全然OKなようです。

 

4.食事について

 

事前に友人よりアルコールを含め飲み物は飲み放題と聞いていましたが、そのとおりでした。

今回は、下記が飲み放題。

アルコール→ビール、ウィスキー、白ワイン、赤ワイン

ソフトドリンク→コーラ、ジンジャーエール、オレンジジュース、ウーロン茶

そしてテーブルにつくと同時に、テーブルに各自分置いてあったカード的なものを開いて見せられ、ファーストドリンクをきかれましたので、「ウィスキーのソーダ割」をオーダー。(シュワシュワしたアルコールが飲みたかったのです)

このカードにはショーのセットリストとコースの食事内容が記載されていました。

今回は前菜、魚料理、肉料理、デザートの4コースディナー。

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個人的な事情で久しぶりのまともな食事だったため、どれもおいしくいただきましたし、量も少なめでちょうどよかったです。

物足りない方はパンは食べ放題で、すぐにサーブされていましたので、パンをひたすら食べるか、先に軽く小腹を満たしておいてもいいかと思います。

それから料理は全員一律なので、アレルギーがある方は予約の際にホテル側にお伝えしておくといいかもしれません。

(今回同じテーブルの方がアレルギーがあるとのことで、料理内容の対応についてどうするか、スタッフさんと相談されていて、事前にお知らせいただくと別の料理で対応することもできる的なことが聞こえてきました。確かではありませんが、一旦事前に相談してみる選択はありそうです)

ドリンクは自分の好きなタイミングで飲み始めてよし。シェフから料理の案内があって、前菜が振る舞われました。

肉料理の前に赤ワインをオーダー。

そして、デザートの前くらいに「ショーの間のドリンク」が聞かれましたので、再び「ウィスキーのソーダ割」を頼むわたし^^;

デザートとともにコーヒーのサーブがありましたが、わたしの胃がコーヒーを拒否しがちなため、「コーヒーが飲めないので結構です」とお伝えしたところ「紅茶をお持ちしましょうか」と言っていただきました。

ということでコーヒー→紅茶への変更も可能。

飲み方もきかれたのでミルクティーをリクエストしたら、ちゃんと牛乳のミルクティーでした。感謝。

そしてコーヒーはお代わりも可能でした。

 

料理が終わったあと、ショーの開始まで30分くらいあったので、お手洗いへ。当日は男性用トイレも女性用に変更されていました。男性は違う階まで行かなければならないこともあるのでご注意を。

5.ショーについての感想

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ステージが暗くなって、ピアノの吉田優子先生が登場され、ベルばらの前奏曲が流れると、なんと杜さんが客席から登場!

ぐるっと客席を歩きながら「愛あればこそ」を歌ってくださいました。

こんな至近距離で歌われる杜さんを見るのは初めてで、初心者らしくしょっぱなから、心臓の音マックスへ!

空色レース地のふんわりしたパンツドレスでした。

杜さんのほっそりした白い腕が、肉眼でレースから透けて見えるのに感動していると、南風舞さんも同系色の上半身レース地の美しいドレスで客席に登場され、最終的にステージ上でデュエット。

ステージ上にはコーラスとして朝峰ひかりさんがドレス姿で、天羽珠紀さんはドレッシーなパンツスタイルで登場されていました。

ご挨拶があって、朝峰さんと天羽さんの紹介がありました。

朝峰さんは現在「歌って踊れるマグノリアホールの支配人」、天羽さんは現在「歌って踊れる鍼灸師」だそうです。

お2人のみごとな転身ぶりに杜さんは「わたしたちは相変わらず同じことをやってます」とのこと。

そんな今年芸能生活40周年のお二人と同じく音楽家生活40周年の吉田優子先生の紹介があり、お二人に因んだ曲をメドレーで5曲歌われました。

最後に歌われた「彷徨のレクイエム」は杜さんが入団3年目のときに「新人公演」ではじめて主演された曲。

革命に生き、恋にも生きた役のようなのですが、若くてその気持ちがわからず、会う男性みんなに「どっちが大事?」と聞いて回ったというエピソードは、杜さん自身よくお話されていたので、覚えていたのですが、この日はこのエピソードを紹介される前に「ちょうどいらっしゃるから聞いちゃおう」と客席の男性に「仕事と家庭、どっちが大事ですか」とマイクを向けると、客席の男性はすぐさま「両方」とお答えになられました。

すると杜さんが「そうでしょ。そうなんですよ。」と。

当時の杜さん調べで「仕事は本能。家庭とは次元の違うもので、比べることができない」らしいのです。

杜さんも大石内蔵助を演じる頃には、同じ感覚に到達していたとのことでした。

今の若い人たちにアンケートしてみたら、また違った答えが返ってきそうではあります。

 

そして今年お亡くなりになられた柴田侑宏先生の作品メドレーが続きました。

客席には柴田先生の奥様とお嬢様がいらしているとのご紹介があり、本当に親しくお付き合いされていたんだなあとしみじみ。

このメドレーの中で一番嬉しかったのが、南風さんと「炎のボレロをデュエットしながら回ってくださったこと。

映像でしか見ていませんが大好きな作品で、南風さんは続投でしたが、日向薫さんとの新トップコンビお披露目作品でもありました。

客席回りはじめのときに、杜さんが軽くじゅうたんにつまずかれて、大丈夫かなと思ったのですが、全然普通に歌っていらしたので「ステキ…!」とか思いながら聞いていたら、なんと後でその瞬間に歌詞がすっこ抜けたことを告白。

「柴田先生の歌詞の言葉の美しさをお楽しみくださいとか言っときながら、作詞しちゃった。今、先生、怒ってるかも」とのこと。でも逆に歌詞がポーンと抜けちゃっても気付かせないほどスラスラ歌う杜さんに、トップスターのスキルを見ました。すごい。

「あかねさす紫の花」から「紫に匂う花」、「大江山花伝」から「うす紫の恋」、「たまゆらの記」から主題歌の3曲は朝峰さんと天羽さんで。

この3作品は特に日本語の美が際立つ歌詞で、改めて柴田先生の紡がれる言葉の美しさを堪能しました。

この間に杜さんと南風さんは、黒ベースに柄の入ったパンツスーツとドレスに衣装替え。

杜さんと南風さんは同期生ですが、組が違うし、杜さんがトップになられたときには、南風さんは卒業されていて、現役中はなかなか一緒に組む機会がなかったそうです。

南風さんが「一度カリンチョ(杜さんの愛称)とお芝居してみたかった」とおっしゃってくれたのが嬉しかったと杜さん。杜さんも歌姫の南風さんと一度デュエットしたかったとのことで、ここからは芝居込みで歌われることを告げられました。

セットリストを見ると、先ほど柴田先生メドレーだったのに、ここからもどう考えても柴田作品ばかり。

マイマイ(南風さんの愛称)とどれにしようかなといろいろ考えたあげく、やっぱり柴田先生の作品ばかりになってしまった」とのことでした。

ということで、1つ目が「星影の人」。

 

 

「一度やってみたかったんです、沖田総司」と杜さん。

南風さんの玉勇との逢瀬のシーンからはじまったのですが、杜さんの沖田総司がすごかった。

声の高さからセリフの言い方まで全て「若くて無垢な男の子」だったんです。でもその中に「鬼」がいて、玉勇と会うときは自分の中の「鬼」がいなくなる、みたいなそんな人物が目の前に立っていたんです。

久しぶりに新しい役を演じている杜さんを目の当たりにして、ああ、杜さんの芝居が本当に好きだったんだなあ、と改めて思いました。

南風さんの遊女の切なさも伝わって、3曲だけなのに「星影の人」という作品を一気に体感した感じでした。

次がうたかたの恋

 

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「星影の人」は映像でしか見たことがありませんでしたが、こちらは1993年星組大劇場版、2003年宙組全国ツアー版を見たことがあります。

杜さん自身も新人公演で演じられた役ですが、これも素晴らしかった。

マイヤーリンクのことをマリーに話すシーンからはじまったのですが、マイヤーリンクの風景が見えるんですよね。

(マイヤーリンクをマイエルリンクとおっしゃってたのもちょっとツボでした。昔はマイエルリンクと訳されていたのかな)

緑ゆたかな森、広がる自然、吹き抜ける風。

皇太子という身分から解放され、癒される、そのことがすごく伝わってきました。

主題歌のデュエットが終わったときには「照れるね」なんておっしゃっていましたが、お二人が作りあげる世界観にただ圧倒されました。

最後が忠臣蔵」。

これは8月のコンサートで紫ともさんと演じられたシーンを、今度は南風さんと演じられたので、その違いが非常に興味深かったし、南風さんの役作りの確かさにもうなりました。

もちろん吉田優子先生作曲のご紹介もありました。

 

stok0101.hatenablog.com

今回ブログのタイトルにもした「もはやこれで思い残すことはござらん」というセリフですが、宝塚の後輩に「今や伝説のセリフになっていますよ」と言われてありがたい、というお話がありました。

杜さんと旧宝塚大劇場のサヨナラ公演だった作品。

杜さんのトップお披露目公演をテレビで見てファンになり、2作目から劇場に通い出したばかりのわたしにとっては、「わたしはまだまだ杜さんが見たい。杜さんは思い残すことはないかもしれないけれど、わたしはいっぱいあるよー」と思って泣きながら聞いていたセリフでした。

ディナーショー冒頭で「卒業してからも10年くらいは毎年ディナーショーをやっていたけれど、歌手じゃないから持ち歌がないのでなんとなくやめてしまった」とお話がありました。

わたしが今回初ディナーショーだったのはここに原因があったんです。

ディナーショーの金額は決して安くはありません。(因みに今回は27,000円でした)

いつか大人になったら行くんだ、と夢見ていた杜さんのディナーショーは、わたしがこの金額を払えるくらいになった頃、開催されなくなってしまったのです。

だから今回のディナーショーは本当に「長年の夢がようやく叶った」のでした。

忠臣蔵」の主題歌になると、杜さんは討ち入りの前に四十七士に声掛けるセリフからはじめてくださいましたが、歌い終わりにこのセリフはありませんでした。

でも今回はわたしが「もはやこれで思い残すことはござらん」心境でした。

出来ることなら今ここで死にたい、と思ったくらいです。

冒頭でも「元気で開催できることに感謝」とおっしゃっていましたが、本当に心の底から今回のディナーショーを開催してくださったことに感謝しました。

 

しかしありがたいことにディナーショーはまだ続いています。

わたしも生きています。

次の曲が南風さんのStand Alone」。

今回は来年3月で移設される会場「宝塚ホテル」のフェアウェルイベントの一環でもありました。

朝峰さん、天羽さんともトークされていたのですが、お二人とは宝塚時代に接点はないとのこと。特に天羽さんにいたっては「たまちゃん(天羽さん)、産まれてた?」と聞かれる始末(笑)。

朝峰さんが、客席から見ていたスターさんと同じステージに立たせていただけるなんて、とおっしゃると「時期は違っても卒業したら同じステージに立てるのが宝塚のいいところ」と南風さん。

そして「同期の杜けあきのおかげでわたしもこのような場に立てる」というようなことをおっしゃったのが印象的でした。

同じトップスターで、南風さんはトップの成績だったのに男役と娘役で違ってくるところに、宝塚歌劇団の難しさを感じます。

相手役に合わせることのない南風さんの歌唱は圧巻。

ただ8月のヤマハホールの方がそのすごさを実感したので、ヤマハホールの音響のよさ、宝塚ホテルは宴会場という違いを興味深く聞きました。

南風さんの歌の間に杜さんは、ヌードベージュのガウンを羽織ったようなデザインのドレスに衣装替え。上品でとてもよくお似合いでした。

最近はシャンソンを歌わせていただくことが多くなったという杜さん。

けれども宝塚時代はあまりシャンソンがお好きではなかったそうです。

宝塚は夢の世界なのに、シャンソンは人間臭さがでるところに違和感を感じられていたようですが、ようやくその魅力がわかってきた、とおっしゃったことに驚きました。

杜さんの歌って全部「芝居」なんです。そしてシャンソンは特に、その歌の物語が見えてすごく合っておられるとわたし個人は思っていたからです。

杜さんは「わたしが思い浮かべている情景をお届けできたらいいな」と思いながら歌っているとおっしゃっておられましたが、こういうことを思いながら歌っておられるからこちらにも届くのだと分かりました。

今回の一曲目が「群衆」

祭の中で出会い別れる二人の物語が見えました。

そして自分と重なるところを感じるという「大根役者」。

でもこれも杜さんとは違う「光当たることもなく、厳しい暮らしの中でも、演じることがやめられない人」が見えるんですよね。

そして最後の曲「That's Life」。

卒業後すぐの頃、おやりになられていたコンサートや、宝塚歌劇100周年後のOGショーでも何度も聞きましたが、なんと今回は南風さんも「わたしもコーラスやりたい」とおっしゃってくださったとかで、非常に贅沢なコーラス入りの「That's Life」は杜さんのサヨナラショー以来でした。

歌いながら客席を回られていると、真ん中のテーブルの席の方が赤いバラの花束を杜さんに差し出されました。

それがもう本当にあのサヨナラショーを思い出させて、涙腺は完全に崩壊。

歌い終わられたあと「柴田先生からお花をいただきました」とおっしゃったので、渡されたのはお嬢さまか奥さまだと思われます。

柴田先生の「粋」をこうやってまだ見せてくださることにも感謝。

アンコールは「さよなら宝塚」。

宝塚ホテルのフェアウェルということでの選曲だったようです。

ここで出演者と吉田優子先生の「宝塚ホテル」への思い出が語られました。

杜さん、南風さんともに一次受験は別のところに泊っていて、突破できたら「次は宝塚ホテルに泊まろうね」とそれぞれのお姉さまが応援してくださり、二次受験の前にお姉さまと泊まられたエピソードを紹介。

そしてお二人のお姉さまも今日この席にいらしているとのことで、このホテルの存在の強さを感じました。

朝峰さんは関西圏なので宝塚ホテルに泊まったことがなく、今回はじめて泊まられたので今日が一番の思い出かもしれない、とのこと。

そして天羽さんは宝塚出身のため、子どもの頃から節目には宝塚ホテルで家族でお食事などをされていたとのこと。

吉田優子先生は関西圏の当時の女性は「宝塚ホテル」で結婚式をあげるのが一つのステータスだったとご紹介されました。

宝塚大劇場がなくなったときにも思いましたが、「強い思い出のある場所」がなくなってしまうのは、やはり淋しいことです。

今でもときどき、もう一度「旧宝塚大劇場」に行きたいなあと思うように、近い将来「旧宝塚ホテル」に一度泊まりたかったな、と思う日が来るのだろうなと、歌を聴きながらしみじみ思いました。

アンコールの拍手はやまず、再度登場してくださったのですが「もう歌はないのよ」とのこと。でもこの空気で歌わずには終われないからと、最後の最後にすみれの花咲く頃をみなさんで。

吉田優子先生に「すみれなら、先生、目つぶってでも弾けるでしょ」という杜ちゃんに、うんうん、と力強く頷く吉田優子先生が非常に格好良かったです。

これで本当にディナーショーは終わり。

幸せなふわふわした気分で預けた荷物を取ろうとクロークに行って、番号札を渡すとこんなカードを渡されました。

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最高のすみれ色の夢を見たひとときでした。

19世期から続く労働者の問題@ A New Musical FACTORY GIRLS ~私が描く物語~

10/25(金) 18:30〜、10/27(日)12:00〜 梅田芸術劇場

作曲 クレイトン・アイロンズ&ショーン・マホニー

日本版脚本・演出 板垣恭一

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サラ・バグリー 柚希礼音

ハリエット・ファーリー ソニン

マーシャ 石田ニコル

アビゲイル 実咲凛音

ルーシー・ラーコム  清水くるみ

ヘプサベス 青野紗穂

フローリア 能條愛未

グレイディーズ 谷口ゆうな

アボット・ローレンス 原田優一

シェイマス 平野 良

ベンジャミン・カーチス 猪塚健太

ウィリアム・スクーラー 戸井勝海

オールドルーシー/ラーコム夫人 剣幸

1.はじめに

日本でこのように大きな劇場でかかるミュージカルというのは、ほぼ100%興業会社の企画制作からはじまります。

今回の「ファクトリーガールズ」もアミューズというプロダクションの企画制作で、アミューズから「柚希礼音とソニン、二人が主人公のミュージカルをやってくれ」という依頼が脚本・演出家の板垣さんにもちかけられた、とプログラムに書かれていました。

そこからなぜ今回の「日米合作の新作」という面白い試みに発展したのか。

プログラムではケン・ダベンボード氏のホームページから「優秀な作品TOP10」の中にこの作品があったと記載されています。

(下記はその作品の詳細にあたります。原曲と英語脚本もリンクされています)

Broadway Producer Pick List: Factory Girls | The Producer's Perspective

 

しかし作曲家チームであるクレイトン・アイロンズ&ショーン・マホニーが作ったこの作品は「ニューヨーク大学のミュージカルシアターライティングプログラムの学位プロジェクトとしてはじめた」とのことで、未完成のまま置いておかれたピースでした。

2人にこの作品を完成させる予定があったなら、アメリカではまず演出家と組み、トライアウトを重ねてプロデューサーをひっぱり、オフ・ブロードウェイにかけて、ヒットすればオン・ブロードウェイに呼ばれる、という道筋もあったでしょう。

でもこの作品は日本の演出家から声がかかり、日本語の上演台本が作られ、上演するために必要な音楽を彼ら二人が新しく作曲をしていく、というレアな成り立ち方をしました。

まず最初に残念だったのは、この「レア」な点が大きく宣伝されなかったこと。

「日米合作の新作」という言葉だけでは、そこまでおもしろい挑戦であったことが伝わってこなかったのです。

このレアな点をもっと強調すれば、まずはミュージカルオタク層は確実にひっかかったと思うのです。

そしてその中の拡散力のある誰かが早目にこの作品のすごいところをふれまわれば、もっと観客を動員できたのでは、と思わずにいられないのです。

まだまだ荒削りだけれども、そのくらい「力のある作品」でした。

 

2.物語と感想

 

物語は19世紀半ば、産業革命中のアメリカ、マサチューセッツ州ローウェルという町の紡績工場が舞台です。

紡績で栄えていたローウェルに親の借金を返すため、女工として働きにきたサラ。

ローウェルで稼いで金銭的な問題を解決し、自分の自由な幸せを夢見ていたサラは、すぐに工場労働の厳しい現実にぶつかります。

一方でここでは「ローウェル・オウファリング」というローウェルで働く女性たちが自己啓発のために詩やエッセイを綴った冊子が作られていました。サラが工場に来たときには、それはマサチューセッツ州議会委員のスクーラーが発行していました。

その編集に携わっていた女工のハリエット・ファーリーはその手腕を見込まれ「ローウェル・オウファリング」の編集長になりました。

女性が言葉を綴る、意見するということが珍しかった時代「ローウェル・オウファリング」の評判は高く、世界から注目されており、その中心的な存在であったハリエットは女工たちの憧れでもありました。

しかしながら工場の経営はだんだんと厳しくなり、そのしわ寄せは女工たちの労働にそのままふりかかります。

もともと日の出から日の入りまでという長時間労働であるのにノルマが増え、鯨油ランプの導入により労働時間は延長され、労働環境は劣悪になっていきます。

ハリエットによって文章で自分の考えを発信することを学んだサラは、現在の状況を訴えるエッセイを書き上げ、「ローウェル・オウファリング」に寄稿しようとします。

しかしサラの原稿は発行人のスクーラーやスポンサーたちを刺激する危険なものだと判断したハリエットは掲載を拒否します。

そして署名を集めて州議会に提出することをサラに勧めます。

一緒に働く女工たちとともにリーダーとして行動しはじめるサラ。

1人で女性の地位向上のために戦うハリエット。

 

そんな社会と戦う女性たちの姿を描きだす作品でした。

 

舞台セット、照明、衣装に振り付けというハード面は目新しさはないものの、高水準の美しいものでしたし、何よりクレイトン・アイロンズ、ショーン・マホニーの曲が面白いのです。 

2007年に作られたとはいえ、今回のために新しい曲も作った二人。興味のある方は下記の二人のインタビューをどうぞ。

『FACTORY GIRLS』作詞作曲・クレイトン・アイロンズ、ショーン・マホニー:“国際的プロジェクト”の新たな形 - Musical Theater Japan

 

ハーモニーの重なり方や転調の仕方がとても新鮮で、歌う方は大変だろうなと思いつつ、まず音楽にとりこまれました。

そして音楽が魅力的ならばその作品はもう半分以上ミュージカルとして成功、だとわたしは思っています。

そしてキャスト陣がまた魅力的でした。

元々「柚希礼音とソニン、二人を活かせる舞台」という最初の条件があったこともあり、とくにサラの柚希礼音は日本語版脚本では「あてがき」されています。

柚希礼音のもつ存在感と類まれな才能で知らない間に周囲を惹きつけ、リーダーとなっていく姿は、本来のサラ・バグリーという人よりも宝塚トップスターとなっていった柚希礼音そのものでした。

ダンスのシーンも盛り込まれ、もはやこのサラは柚希礼音以外の人が演じたら違和感さえ覚えることでしょう。

またそのダンスシーンがいい。振り付けもいいし、心情を踊りで表現できる柚希礼音が、改めてすごい。

 

一方のハリエット役ソニンは、逆にここまで緻密に「ハリエット・ファーレイ」という人を表現するか、という繊細な演技が見事でした。

過酷になっていく労働状況に疑問をもち、仲間に盛り立てられ、みんなのために、そして自分のために活動していくサラの物語は分かりやすく爽快です。

けれどハリエットの孤独な闘いは、状況の説明が少なく、ハリエットが何でそれほどまでに慎重になっているのか、何がハリエットの問題なのか、「今がチャンス」と歌うもののその「チャンス」はどこにあるのか、一切が描かれないなかで、それでもこの人は何かサラを含むほかのファクトリーガールズに見えていない社会が見えていて、それにたった一人で挑んでいるのだ、と納得させるものがありました。そのハリエットの孤独は痛いほどに伝わり、震えながら「ペーパードール」という曲を歌う彼女を抱きしめたくなるほどでした。これはソニンにしかできなかった、そう思います。

(ちなみにソニンさんは「ローウェル・オウファリング」を読んでこの役に挑んでいます。その辺もさすがというか、カッコイイ!)

そして2人が歌う「あなたに出会えて」がまたいいのです。内容的にはWICKEDの「for good」と同じ感じなのですが、2人の声の相性がいいのか、美しいハーモニーが絶品でした。

 

知的なアビゲイル、キュートなルーシー、芯の強いヘプサベス、明るいマーシャ、純粋で優しいグラディーズ、そして暗い過去と戦うフローリアなどファクトリーガールズたちも全員魅力的で、もちろん男性陣もしっかりと枠を固めていました。

 

オールドルーシーが過去を振り返るという形で描かれたこの作品は、ルーシーの講演会という形ではじまります。

何もない舞台に一人で真ん中にたち、聴講客として見立てられた観客席に語りかける剣幸さんの存在感がまた光っていました。ラーコム夫人であり、ストーリーテラーでもある演じ分けもみごとでした。

 

3.日本で響く「メッセージ」と言葉

 

しかし何よりこの作品の魅力は「メッセージ性」だったと思います。

19世紀半ばのアメリカ工場労働者の物語は、残念ながら現在の日本の労働の場に共通する問題を多く持っていたのです。 

 

同調圧力の中の長時間労働

滅私奉公を尊いと思う価値観。

そして女性差別学歴差別、移民差別による所得の違い。

 

ファクトリーガールズは「女性の権利や地位向上」を目指した物語ですから、女性の労働に対する問題を浮き彫りにしていきます。そしてそれは残念ながら今も変化のないものも多いのです。

劇中でハリエットが「スポンサーから(ハリエットが)一緒に酒を飲んでくれなかったというクレームがあった。その辺はうまくやってくれ」というような言葉をスクーラーから言われるのですが、今この瞬間でもこういうことを言われている労働者は多いのではないでしょうか、性別問わず。

何のために働くのか

生きるためには仕方ないのか

この歌詞は自己を犠牲にして働いている人たち全員の心の代弁だと思うのです。

だからこそ、わたしはこの物語、この作品を「本当に必要な人」に見てもらいたいと切望しています。

なぜならわたしはもう「観劇」をはじめとする趣味をもち、そのための資金源として自分の楽しみのために働いているからです。

誰のためでもない。もちろん金銭的な不満や将来的な不安はたっぷり抱えていますけれど、それはわたしが選択したものであり、「自由な選択」に基づいた結果なので受け入れています。

けれど世の中にはそうでなく働かざるをえない人もいる。

ファクトリーガールズたちのように夢をもって働き始めたのに、働いているうちに見失ってしまった人たちもいる。

そういう人たちがこの作品を見れたならば、何か「助け」になる言葉、心に響く「言葉」を受け取れるのではないかと思うのです。

そして、漠然とした将来に不安を抱えている若い人たち

彼らがこの作品を見たならば、生きていくうえで何か「支え」となる言葉に出会えるかもしれない、とも思うのです。

ファクトリーガールズは「言葉の力」を信じる物語でもあるのです。

自分の考えを言葉にすることの強さ、を見せてくれます。

これはおそらく、アメリカでは訴求できない点というか、訴求する必要のない部分でしょう。彼らは「自分の気持ちを言語化し、他人に伝える」教育を受けているからです。

けれども日本ではそういった教育があまりなく、社会に出て「言語化」の難しさを知り、そのテクニックを必要としているように感じています。そしてインターネットの発達で「多数に向かって発言すること」が容易になったからこそ、「正しい言語化」のために書店でも「文章術」の本がたくさん売られているのでしょう。

劇中でハリエットに対して「意見を述べる女性が現れるなんて」というようなセリフが出てきます。それに対してハリエットはこう答えます。

驚かれるかもしれませんが

女性も言葉を持っていると

「みなさん お忘れなく」

そしてサラは「言葉」を使って「自分の意見」を述べることを覚える。

その「言葉」に賛同してくれる人たちが集う。

1つの力となって行動する。

この過程がとても魅力的でしたし、「何かをしたい」と思ったなら、サラをなぞらうこともできる、そういう道筋を見せてくれる作品でもありました。

 

4.ファクトリーガールズとはどんな存在だったか

 

一方で気になる「言葉」がありました。

ファクトリーガールズたちが「奴隷じゃないわ、娼婦でもない」と歌うシーンです。

これは南北戦争以前の物語で現実に「奴隷」がいた時代の話です。さらに「娼婦」にいたってはそれも「職業」です。彼らとは違うのだと叫ぶことは差別ではないだろうか、とも思いました。

ちなみに原歌詞ではこの部分にあたります。

OH I WILL NOT BE A SLAVE
I CANNOT BE A SLAVE 

FOR I AM SO FOND OF LIBERTY

I CANNOT BE A SLAVE

(奴隷にならない、奴隷になれない

 自由を愛するから、奴隷になれない)

ファクトリーガールズは日本の世界史の授業でならうところの、「アメリカ独立戦争」と「南北戦争」の間の時代であり、「アメリカ人とはなんぞや、アメリカ人たるものとは」みたいな意識が芽生えていた時代だと推察されます。

だからこそ、上記の原歌詞が生み出されたのだと思います。

 

「市場革命の時代における女工たちの労働運動──マサチューセッツ州ローウェルを中心に──久田由佳子著」という論文にこのような記載がありました。

論文の英語タイトルは「I Cannot Be a Slave: mill girls' protests during the market revolution」となっています。(下記より論文を読むことが可能です)

https://aichi-pu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=906&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

操業開始当初、ヨーロッパのような劣悪な状態を避けるために、また工場労働と貧困が結びつけて捉えられないように、労働力をニューイングランドの農家出身で「教育と美徳を身につけた」未婚の女性たちに求めた。会社は、彼女たちを引きつけるために寄宿舎を建設し、「尊敬されうる」寡婦たちに管理を任せた。

ヨーロッパの劣悪な状態、といわれると「レ・ミゼラブル」のフォンテーヌが働いていた工場が頭に浮かんだあなたは間違いなくミュージカルオタクです(笑)

それはともかくとして、ローウェルの女工たちは「教育と美徳を身につけている」という自負があった、それが超訳となって「奴隷じゃない、娼婦でもない」という歌詞につながっているのかもしれません。

同論文の中には下記のような記述もありました。

 『オファリング』と『ヴォイス』の編集者はいずれも、女工が労働者を非人間化しようとする機械の抑圧的な力から自分たちを守り、労働で手を汚すことのないレディたちと自分たちが教養にかけては対等であることを証明しようとしていた点では一致していた。

『ヴォイス』とは「ヴォイス・オブ・インダストリー」の略で、劇中でサラが寄稿していた新聞です。サラはのちに編集者にもなったと論文には書かれています。

この文章からも彼女たちが「奴隷」とは立場が違っていることを認識していることがうかがえます。

そして、このような記載もありました。

ファーリーは、昨今の労働条件悪化の中では、ローウェルで開催される反奴隷制フェアに女工たちが参加するかどうかは期待できないといったことを書いていた。(中略)ファーリーが女工たち一般の奴隷制廃止問題に対する関心度を疑問視していたことは明らかである。

ハリエットが奴隷制度について問題視していることは劇中でもさらっと交わされるセリフがあります。しかしサラがどうだったかは今のところ証明するものがないようです。

もしアメリカでこの作品が英語で上演されることがあるならば、この時代のいわゆる「ローウェル・ミル・ガールズ」の考え方や立場といったものも重要な点だと思います。

彼女たちがあそこまで戦う必要があるほどにみじめには見えなかった、という意見も聞きました。

実際のところ、当時のアメリカを旅行したハリエット・マーチノウの「ウォルサム及びリンにおける状態」ではこのような記述があります。

人々は平均して週に70時間ほど働く。労働の時間は陽の長さによって異なる。けれども賃金の額は変わらない。すべてのものは、良いみなりをした若い貴婦人のようにみえる。健康状態はよい。

(原典アメリカ史第3巻[原典]ハリエット・マーチノウ「ウォルサム及びリンにおける状態」より)

もちろんこの「原典アメリカ史」でも、このような視察が入るときのみ清潔にした可能性についても言及されているし、劇中でまさしくそのようなシーンがあります。

とはいえ、ローウェルの女工たちが、他と比べると「比較的マシ」な状態であったことは確かなようです。

劇中でも最初の方は「福利厚生」的な扱いで会社主催の「舞踏会」が行われていたりします。(「舞踏会」というと豪華な宮廷で行われるものを想像しますが、普通に公民館とかで行われるパーティーです。なんでわざわざ「舞踏会」なんて言葉にしたんだろう)

ローウェルの街には、パーティーのための服を買う店があり、図書館があり、学べる環境があった。それこそ自己啓発の一環として「ローウェル・オウファリング」を制作・出版できさえしたのです。

比較すれば貧しいけれど、文化的に豊かでした。でもだからといって沈黙からは何も生まれない。

「問題は問題」として「声をあげる」ことの大切さ、それがこの作品で描かれていた一つの大きなポイントではないでしょうか。

ただ日本ではこの作品の中で「彼女たちが持っていた無意識の上から目線」については別に見せるべきところでもないと個人的には考えます。

それよりももっと、「人形じゃないわ、機械でもない」、わたしたちは「生きている人間だ」という方にフォーカスしてよかったように思います。

 

 

5.再演可能であるならば、その時の要望

 

そういうブラッシュアップもかねて、本当に切に再演を希望します。

プログラム内のキャスト対談でソニンさんが今回の公演の問題点として、下記3点をあげていました。


①公演期間が短い。

②口コミで広がる間もない。
③近いうちに再演を打つができるくらい仕上げないといけない。

 

①と②の問題が本当に表面化して、とりわけ大阪公演は客入りが悪く、再演が可能なのか非常に心配な状況です。でも万が一、再演が決まることがあるならば、まずポスターの改善を求めます。

ふんわりした印象のポスターと作品の強さがあまり合っていない、という意見も多く見かけました。たしかにこのポスターからこんな物語だったとは、わたしも全く想像できませんでした。

再演の際のポスターは、ファクトリーガールズの中で語られている言葉、歌われている言葉をそのまま「宣伝」に使ってみたらどうでしょうか。

 

疲れ切った帰りの、そして憂鬱な朝の通勤電車の中であの「言葉」たちが目に入ったら、見に行ってみようという気持ちにならないでしょうか。

手に入れたいのは

ひとりでも笑える勇気

 

私は“私”を生きたい

 

力が欲しいの

理不尽と戦える力を

 

世界に広がる自分の言葉で

声を上げてみよう

 

誰かと手をつなごう

みんな1人だから

 

いつか私が終わるとして

誇りをこの胸に歩き続けよう

世界はまだ変われるから

そしてこの歌詞のように、若い人たちには「自分次第で世界は少しだけ変えることができるかもしれない」という可能性を見せてほしいのです。

 

今回わたしがこの作品を見に行くのを一番ためらった原因がチケット代でした。そうでなくても見たい作品が多い時期で、さらに一番安い3階の天辺の席でも8,500円もしたからです。

もちろんこの作品にはそれだけの価値があります。再演されたら1番高い席で観に行きます。

でも見ないとわからない。最初のハードルが高すぎる。

だからこそ次回はスポンサーを入れて、少なくともU25チケットの設定と学生シートの導入を検討してもらえると嬉しいです。

この作品のスポンサーになってくれる勇気ある会社があるならば、それだけで尊敬に値します。

労働者側の問題を描いた作品のスポンサーになるというのは企業として成熟していると思えるからです。