こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

ボーダーライン

会社に届くメルマガにアウシュビッツのことが書いてあった。
確かに著者の言うとおり、日本にいると、近隣のアジア諸国と日本のことはひとまず置いておいて、ナチスアウシュビッツは本で読むような、いまいち現実感のない話である。しかし、ヨーロッパへ行くと、多かれ少なかれ、日本にいた時よりも身近に感じる。なぜなら、ユダヤ人と出会うからだと思う。


とは言っても、私がこのホロコーストについて、何らか感じることがあったのは、昨年夏が初めてだった。部屋をシェアしていたエマがユダヤ人で、彼女が出演していた作品がユダヤ人脚本のアウシュビッツからの生還を描いた物語だったからだ。

その作品は、とても良かったと、個人的にも客観的にも思っている。また彼女の演技も素晴らしいものであった。


しかしながら、彼女とその脚本家と、そして私の参加していた劇団との間に摩擦があって、それで私は初めて、今に至るまでヨーロッパ人の中にあるユダヤ人像と、その溝を垣間見た気がした。私はどちらの言い分も聞き、どちらも私自身は理解できる部分があったため、英語が話せない、分らないのを隠れ蓑にし、彼らの摩擦を知らないことにして過ごした。彼らの隔たりは、現在の世界の中で、日本人の私だから見えるものと、そして日本人の私だから、経験的に、知識的に、感情的に理解しえないものがあるように思った。


個人個人はもちろん違うから、民族的にと言うのにはすごく問題があると思うけれど、それでも敢えて私が彼女たち二人をユダヤ人という言葉で見るときに思ったのは、とても真面目だということだった。そしてその真面目さゆえに、他人の不真面目さに対して、少々厳しい目を持っているように、私個人は感じた。そして、私の参加していた劇団の人たちは、日本人である私が見ていても、ちょっとハラハラするような気楽さがあって、その部分と彼女たちの真面目さがぶつかると、彼らは彼女たちの様子を頑なに感じてしまうのかもしれないな、と歴史的背景は理解できていないけれども、感じたりもした。


で、このこととは直接の関係はないけれども、学校教育で「愛国心」を学ばせよう、という方針を聞く時に、私はちょっとだけ、怖くなる時がある。押し付けられた「愛国心」に何の意味があるのだろうか。
それよりも、私は、もれなく海外に行くことをおすすめする。できれば、人種のるつぼのようなところへ。その方が、日本のダメなところももちろん感じるが、日本では日本人のこんなところがダメって言われているが、そうでもないところも、日本の素晴らしいところだって、発見できて、何より「日本人」であることを実感するから。
どうだろうか。