こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

2月24日 18:00~ 新宿FACE
ヘドウィグ:山本耕史
イツァーク:中村中
http://www.hedwig.jp/

初演(ヘドウィグ:三上博史)を大阪で見ていたのだけど、大好きな作品なのに、全く入り込めなくて殆ど記憶せずクタクタに疲れて帰った記憶がある。今回の山本版を見ながら、その理由がはっきりした。三上版は私にとっては、三上さんと三上さんのファンのための作品だったのだ。熱演だった。けれども、三上ヘドウィグはヘドウィグという人物像は伝えたかも知れなかったが、ヘドウィグの物語は私には伝わらなかった。ヘドウィグの破天荒で無理矢理上げた高いテンションのまま熱演するさまは、観客を置いていく熱演嫌いの私の好みに合わなかったのだ。私にはヘドウィグの物語より、単なるライブに見えた(個人的にノルことを強要されるライブが苦手で、客席で落ち着いて見ることが好きなので・・・)

そういう意味で山本ヘドウィグの今回の舞台は、ライブというより、芝居、だった。一切観客に媚びないプロの芝居だった。作品の性質上、エンターテインメント部分としては三上さんほどではなくとも、もう少しベタに観客に媚びた方が楽しかったことは否めないが、それを置いても、山本耕史という舞台俳優の演技力を堪能する楽しみが個人的にある舞台だった。
山本ヘドウィグからは、ベルリンの壁が見えた。共産主義東ドイツが見えた。テレビでベルリンの壁が壊される場面を見ているヘドウィグの言葉に出来ない心情が見えた。そういう時代背景を感じさせながらも、ドラァグクイーンやゲイというセクシャル・マイノリティーである上での苦悩というよりも、もっと、単に人間として、片割れと信じた男にふられた、失恋の苦しみという身近なものを描き出していたように思う。

残念だったのは、歌を全て英語でパフォーマンスする、という演出だった。ヘドウィグが「自分の片割れ」を探す理由となった「Origin of Love」や、アングリーインチの理由を語る「Angry Inch」なんて、歌の意味が分からないとストーリーの重要なところが抜けてしまう。英語が分かる人や、事前にこの物語を知っている人ならいいけれど、最初に日本語の歌詞カードを配っているとは言え、全く初めて見る人を無視した演出ははっきり言って奢りである。英語の字幕を流せるのであれば、初演の三上版のように、どうして日本語字幕にしなかったのか理由がさっぱり分からない。ヘドウィグのファンのためだけの舞台、にどれだけの意味があるのだろう。

劇場はライブハウスだけにヘドウィグの場末感を出していて良かったが、劇場ではないので、観客席に段差がなく、固まったブロックは相当見づらかっただろうと思う。パイプ椅子でも我慢するから、せめて、席の並べ方など、ディズニーランドのショーでも見て、勉強して欲しかったと思う。そして、ライブハウスにするならば、1時間40分という短いショーだし、早くても8時スタートでアルコールでも出してくれた方がヘドウィグの世界観はより伝わったのではないかとも思った。