こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

愛は目に見えないものだから@仏ロミジュリ

何度か書いているように、私とフランスミュージカル・ロミオとジュリエットの出会いは4年前友人から借りたDVDでだった。
もちろん言葉が分からず、キャラクターの細かい設定など分かるわけもなく、ただダンスと「死」の印象だけが強烈だった。もちろん、その時あれがすぐに「死」だと分かったわけではない。でも見ているうちに、あれは「死」だな、と悟ったのだ。
だから、翌年宝塚版のロミジュリを見た時には愛の存在に衝撃だった。そして「死」がまるで宝塚版のトートのようであったことにショックを受けた。
そして、宝塚での再演と日本版を経て、ようやくその存在に慣れ親しんだ頃のこの来日公演だった。

DVDとこの来日公演はまたセットも衣装も演出も全く違う。それでも、私がはじめて見て感激したものがそこにはあった。何より、音楽と一体化した照明は映像で見るのと舞台という空間で見るのは全く違うのだと実感。音に合わせてシャープに踊る照明の格好良かったこと。色合いといい、「死」がそこにいるのに照明を向けないという使い方といい、色々ととても新鮮だった。
音響も雑踏、嵐、鐘など効果音が上手く使われ、より想像力をかき立て、舞台の街を、ヴェローナの街を描いていた。

そして、何より、歌われている内容を大枠でも知れたことで、よりこの作品を感じ取り考える機会をもらえたことが有り難かった。
そして、だいたいの歌詞の意味を掴み、各キャラクターを掴み、そして、そこに見える「死」を思うときに、ふわんと存在する「愛」を感じたのだ。
「死」は確かに目に見えて存在する。舞台の上の具象化のことではなくて、誰かが、何かが命を亡したものを私たちは見ることが出来る。現実的に「死」はある。そして、それは確実にいつか自分の身にやってくることを知っている。「死」はそこに間違いなく存在している。
けれど、愛は違う。あることを誰が証明することが出来るだろうか。
ただ、そこに「思い」があることが伝わる内容にぐっときたのだ。ロミオとジュリエットの思い、乳母の思い、友人の思い、そして互いの母親、ジュリエットの父の思い。それは、ただただ愛おしいだけのものではなくて、計算やもっと単純な思考や感覚や思い上がりや独りよがりなものを内包していて、だからそれを翻弄する「死」が現実的に感じられたのかもしれないなと思う。

さらに、キャピュレット夫人がジュリエットに、この時代女で生きるということはそういうこと、大人になりなさい、とジュリエットに結婚を迫るのが個人的にはぐっときた。諦め、疲れたようなキャピュレット夫人の姿とあいまってその要求が自然に感じられたからこそ、反発するジュリエットに若さを感じ、その若さにある可能性も見たのだ。日本版でも理由は違うけれど、キャピュレット夫人の物語とジュリエットの「結婚は好きな人としたい」という理由は理解できてそれを楽しめたことを考えると、やはり宝塚版はその構造上仕方ないとは言え、ジュリエットの描き方が個人的には足りなかった。

物語には好みがあれ、とりあえず荒れ狂うヴェローナの民衆たちの激しいダンスは素晴らしかった。フランス・ミュージカルが歌とダンスが分業制であることは賛否両論あるだろうし、私自身も支持しているかと言われると難しい。けれども、殆どダンスのないオペレッタのような作品たちも「ミュージカル」と呼ばれるのであれば、これをミュージカルというのには抵抗は全くない。何より、分業制にしたことで、この振り付けがあるのであれば、歌に偏りがちな現状で、魅力的なダンスのあるミュージカルは、個人的には大変歓迎している。

ロミオは歌声が好み、ジュリエットはアンダースタディーながら、勝ち気で情熱的な演技が素敵だった。死は個人的にもう少し大柄だと良かったのになと思う。ロングヘアを振り乱すのは死としては個人的に不要に感じた。ティボルトがあんなに呟くように「俺はティボルト」と歌うのには本当にキュンとした。歌ではなく、ティボルトの言葉としてとても自然で素晴らしかった。そして、マキューシオがまさしく理想の姿、演技、声のトーンで大満足。二人に比べてベンヴォーリオの印象が薄かったのが残念。

大公が狂言回し的役割を担っていたこともこの演出が好きな理由の一つ。その高圧的な大公がフィナーレではあんな風になっちゃうのがおまけ的に大変楽しく、色々と大満足の舞台だった。