こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

闘うものの声がきこえるか@ドキュメンタリー映画「性別がない」「愛と法」

9/15(土)にシネヌーヴォで「性別が、ない!」を9/22(土)にシネリーブルで「愛と法」を見てきました。
どちらも大阪公開初日だったため、監督と出演者のアフタートークがありました。
作品だけを見ての感想が正しいカタチだとは思うのですが、どちらのアフタートークも非常に興味深かったため合わせて書いてみたいと思います。

まず「性別が、ない!」。
こちらは漫画家の新井祥さんとパートナーのうさきこうさんのドキュメンタリー映画です。

新井祥さんは半陰陽インターセックス(IS)とも呼ばれる性分化疾患者です。
男性でもなく女性でもなく、男性であり女性でもある。
新井祥さんご自身は30歳まで性分化疾患に気づかず、当時男性とご結婚されていました。
しかし体調の変化から病院に行ったところ、性分化疾患と診断されたとのことです。
この辺りのことは新井祥さん自身の漫画に描かれていますので、ぜひお読みください。
性別が、ない! (1) 性別が、ない! (ぶんか社コミックス)
新井祥
ぶんか社
「性別が、ない!」人たちとのつきあい方~実はあなたにも当てはまる20の性別パターンガイド~ (本当にあった笑える話)
新井祥
ぶんか社
LGBTだけじゃ、ない!「性別」のハナシ (本当にあった笑える話)
新井祥
ぶんか社

私はこのマンガをおそらく10年くらい前から愛読していて、だから今回の映画を見に行きました。
マンガで描かれる新井先生の視点や分析がとても分かりやすく、興味深く、そして何があっても常に明るくポジティブなマンガの中の新井先生の姿に憧れてさえいました。

しかし映画でみる新井先生は当たり前だけれど、マンガとは違っていて、受ける傷も何もかも覚悟の上で、世間と闘っていました。
その姿は厳しく、時には怖くすらありました。
そして闘うにはこのくらいの気持ちが必要なんだと気づかせてくれました。

監督が「マンガのコマの間の描かれていない新井祥さんの姿を撮したい」とおっしゃって、今回のドキュメンタリー映画化が実現したそうです。
単純に楽しくマンガを読んでいた自分の浅さも痛感しました。

映画で映し出されるのは新井先生とこうくんの日常です。
実はマンガでは新井先生とこうくんの関係については説明がなくて、こうくんが新井先生宅に住みはじめ、アシスタントをするようになり、そして同居にいたって10年以上になっています。
数年前にこうくんが無事漫画家デビュー
ぼくのほんとうの話
うさき こう
幻冬舎コミックス
純情少年 僕が男とヤッた理由
うさきこう
ぶんか社
し、ゲイであることを公表して、まあそういう関係なんだろうなあとは思っていたのですが、実際はもっと単純で複雑でした。
そして新井先生とこうくんの関係こそが、恋愛や婚姻からなるパートナーシップしかない、となんとなく思っている今の常識的なものに一石を投じているのではないかなと感じています。
(新井先生は戸籍上は女ですし、こうくんは男だから婚姻は可能なのです。でもそれを選択していません)

アフタートークで新井先生がおっしゃっていた「パートナーシップ制度は誰とでも結べるものだといい。友達同士でもいいし、それこそ愛犬とかとも」という言葉は本当にその通りだなと。
実際、愛犬の場合だと寿命の差とかもあるので難しいけれどね、ともおっしゃってましたし、のちにTwitterで起こりうる問題点を補足してくださいましたが、パートナーシップの考え方の根底がこういうことであると選択肢が増えていいなと思うのです。

「性別が、ない!」というドキュメンタリー映画で私が感じたのは、1人では倒れてしまいそうなとき支えになるものがあるといいということでした。
それが今のところ、新井先生にとってはこうくんで、こうくんにとっては新井先生なのでしょう。

こうくんはマンガで初登場したときから「美少年」に描かれているのですが、ホンモノのこうくんは本当に美形でした。
そして新井先生がマンガよりも厳しいところ、繊細なところを感じたのに対して、こうくんはマンガよりも明るくて強いイメージが強かったです。
そんな2人のバランスがとてもいい映画でした。

ところで「この世は男と女しかいないんだから」という言葉をよく聞きませんか?
新井先生はそのどちらでもなく、そういう意味では「世の中にいないことになっている存在」であるわけです。

そんな「世の中にいないことになっている存在」を再び考えさせられたのが「愛と法」でした。
こちらは弁護士のゲイカップルの日常が描かれます。

「性別が、ない!」の監督が、撮っているうちに何かテーマ的なものが見えてくるだろうというスタンスであったのに対して、「愛と法」は監督もカップルの片割れカズ(南和行さん)も、思いがあって映画を作り上げていたのが対照的でおもしろかったです。
(と実際に南さんがアフタートークでおっしゃっていました。)


主人公たちが弁護士ですから、「愛と法」にはさまざまな問題が登場します。
彼ら自身も性的マイノリティーであることと闘っていますが、その他の闘う人と一緒に闘うことが仕事です。
その闘う人の中に「無戸籍者」という人たちが登場します。さまざまな事情で戸籍を持たず育ってきた人たちです。

新井先生が愛犬とパートナーシップを結ぶときの1つの問題として「戸籍がない」ということをおっしゃっていましたが、彼らには日本という国で権利を得るために必要なそれがないのです。
権利を得るための闘いを見たときに、いま私の周りにある権利や自由は、誰かが闘って手に入れてくれたのだなあとしみじみと感じました。

愛と法」のプロデューサーはエルハム・シャケリファーという方で、イラン系イギリス人だそうです。
そんなわけでこちらの映画には英語字幕がずっとありました。
これが非常に面白くて、とりわけ地下鉄に乗るシーンで、地下鉄のアナウンスも全部英語で表示されるんですよ。
元々映画自体も「窮屈な日本」という側面を描こうとしている部分もあるので、それを際立たせるための英語字幕だったのですが、これが実に効果的でした。

車内混み合いましてご迷惑をお掛けいたします。
しばらくの間、ご辛抱ください。


毎日毎日何気なく聞いているこのセリフ。
改めて英語で謝罪文として見せられ、patienceなんて単語を見せられると、そんなに「ガマンを大事にする国」なんだなと痛感しました。
ロンドンの地下鉄で思い出せる車内アナウンスといえば「Mind the gap between the train and the platform(電車とホームの隙間にご注意ください)」くらいなもの。
ときどき、◯◯駅には止まらないよ、なんて唐突に流れて、駅がスキップされたり、唐突にここまでだから降りてねと途中で降ろされたりしたものですが、基本的には2001年当時は次の駅の紹介と先ほどのMind the gapくらいしか車内アナウンスは聞きませんでした。

結果的にはロンドン地下鉄の方がかなり色々ガマンさせられてる気がするのですが、それを言葉にするかどうかでこんなに見えてくるものが違ったのです。

さて「性別が、ない」がシネヌーヴォという大阪の小さな下町の映画館で公開されたのに対して、「愛と法」はシネリーブルという来日観光客にも大人気のスカイビルがある梅田のど真ん中の映画館で公開された違いはなんだろうと思ったのですが、見て分かりました。

愛と法」は主人公2人が大阪で育ち大阪で働いて、大阪を愛しているからです。
どうでもいいのですが、実は私と南和行さんは高校の同級生です。とは言ってもクラスが違うし全く接点なかったので知らないのですが、まあ同じ大阪で育った身から見ると、私の地元も映画の中に映し出されるし、やはり大阪の中心地・梅田での上演がピッタリだったなとか思いました。

ところで以前見た「FAKE」でもそうだったのですが、「性別がない」でも「愛と法」でもネコのカットが数回ありました。
登場人物たちがたまたまネコを飼っていたからなんですけど、新井先生ところは犬も飼われているんですよね。でも犬よりネコの方がカット数が多かったのはなぜなんでしょうか。
ドキュメンタリー映画における「ネコ」。
なんとなく調べてみたら面白いそうなんて関係ないことを思ってしましました。