こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

アラフィフ負け犬がビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

彼が見た夢、わたしが見た夢@宝塚月組「グレート・ギャツビー」

8/20(土)15:30~ 宝塚大劇場

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スタッフ

脚本・演出  小池修一郎

作曲・編曲  太田健・吉崎憲治・高橋恵・小澤時史

装置  松井るみ

キャスト

ジェイ・ギャツビー    月城 かなと        
デイジー・ブキャナン    海乃 美月        
トム・ブキャナン    鳳月 杏        
ニック・キャラウェイ    風間 柚乃        
ヘンリー・C・ギャッツ/運転手    英真 なおき        
マイヤー・ウルフシェイム    輝月 ゆうま        
ジョージ・ウィルソン    光月 るう        
ジョーダン・ベイカー    彩 みちる        
マートル・ウィルソン    天紫 珠李

 

今回の感想を語るのに、わたしの「初演への思い」抜きでは成り立たないので、そこから書いていきます。
つまりその前半がとても長いので、感想と分けます。
感想だけなら読んでやるぞという方は下記よりジャンプしてください。

1.初演「華麗なるギャツビー」とはどういう存在だったか

1991年の8月、わたしは15歳になったばかりの中学生でした。
12歳の小学校卒業式の日に、運命的にテレビ越しで杜けあきさんというスターに一目惚れしたわたしは、親に頼み込み13歳の時に「ベルサイユのばらアンドレとオスカル編~」で宝塚大劇場に足を踏み入れました。
そこから3年間、ほぼ宝塚歌劇しか見ていなかった身にとって「華麗なるギャツビー」は、本当に衝撃だったのです。

 

まずプロローグがない。
緞帳があがって紗幕があって、上手からニックと運転手が登場する。
2人の短くさりげない会話。
そこから紗幕の中には一人二人と人が増えていき、楽し気な音楽が響く。
一気に「ギャツビー邸」のパーティーが陽気に繰り広げられる。

 

シーンは魅力的に転換し、ショーアップされ、まるで本物の「ミュージカル」のようでした。
そう、そのくらい、その頃の「宝塚歌劇」は「宝塚歌劇」というジャンルで、「ミュージカル」ではなかったのです。
恐らく「ノバ・ボサ・ノバ」が上演された時代(1970年代前半)の方が、本場のミュージカルに近いものがあったのでは、と勝手に想像しています。
今思えば、1974年から「ベルばらブーム」がはじまって、特に芝居の方は「宝塚歌劇」という形式が出来上がり、それが熟成されていた時期だったのでは、とも思います。

そんな中で大劇場第一作目「天使の微笑み・悪魔の涙」でもミュージカル的な合唱シーンを作り、二作目「アポロンの迷宮」で観客が楽しめる要素を詰め込んだ、当時デビューしたての新人演出家だった小池修一郎先生の、満を持した三作目が「華麗なるギャツビー」だったと、これまた勝手に思っています。

ギャツビーの人生そのもののように、流れるようにシーンが移り変わり、魅力的な音楽とともに起伏しながら物語が進んでいく。
今の多くの「宝塚歌劇」では当たり前に行われていることです。
でもそれを初めて見たときは「こんな舞台があるんだ・・・、こんな舞台が作れるんだ・・・」と「衝撃」しかなかったのです。

2008年、日生劇場でこの作品が再び小池先生の手によって、二幕物として作り直されたときのプログラムに、評論家の小藤田千栄子さんがこう書かれていました。

宝塚の作品群のなかには、ときにふと思い出し『あれは良かったわねえ』と、長々と話し合ったりする演目がある。もちろん見る人によって、作品はさまざまだが『華麗なるギャツビー』は、かなり高い確率で、話題にのぼる作品ではないかと思う。 (中略) ついで、脚色・小池修一郎の手腕に感心した(中略)ダンス・シーンを多用し、セット転換の巧みさもなかなかのものだった(後略)。 (中略) だが脚本として、いちばんうまいと思ったのは、ニック・キャラウェイとジョーダン・ベイカーが、舞台のカミテとシモテで、電話で話すことによって、一気に、主人公2人の過去を語ってしまったことである(後略)

15歳のわたしが「なんて格好いいんだ・・・!」と思った転換もまさにこの「ジョーダンとニックの電話シーン」でした。特にこの後、昔語りが終わり、合言葉からアイスキャッスルに変わるところは、今見ても本当に格好良い・・・としびれてしまいます。

それまで単なる幼いファンで、宝塚音楽学校の受験資格の年齢にあてはまっていたわたしは、バレエも歌も習ったことなどないのに「音楽学校に入学してタカラジェンヌになれればいいなあ」というシンプルな憧れを持っていました。
しかしそれがこの日を境に変わったのです。

タカラジェンヌではなくて、わたしは、こんな格好いい舞台を作れる「演出家」になりたい!

ここからわたしは道を誤りました。
素直にタカラジェンヌに憧れて受験して落ちて現実を受け入れればよかったのに、「演出家」という正体がはっきりしないものに憧れた結果、どうやったらなれるのかを模索し、脚本の勉強をするために「真っ当な人生を送れたかもしれない大学」から、「わたしは夢に生きるんだ、就職などできなくてもよい」と実家から通える唯一のそういう舞台のことを教えてくれそうな大学に行ってしまいました(楽しかった・・・!)。
そして「本場の舞台芸術を学ぶんだ」と、大金はたいてロンドンまで行ってしまったのです。
わたしは舞台を作る人になれない、と気づいたのは27歳の時でした。

これが、初演の「華麗なるギャツビー」が、15歳の子どもの人生を踏み誤らせた一例です(笑)
しかしおかげで「やりたいことを、若い時のもてるだけのパワーを全部使ってやれるところまでやった」人生には満足しています。
そしてこの人生は初演の「華麗なるギャツビー」がくれたものだと思っています。
初演の「華麗なるギャツビー」は「舞台芸術」に興味を持った最初の作品だったのです。

というわけで、2008年日生劇場版も見ずにはいられなかったし、

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2017年梅芸版でブロードウェイから作曲家を呼んで作り直すぜ、と上演されたときももちろん見に行っています。

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だから購入していたチケットがコロナによって中止になった時は、自分でも驚くほど動揺してしまいました。
このわたしが、小池先生のギャツビーによってこんな人生を送っているわたしが、小池先生の新しいギャツビーを見れないなんてあり得ない、とまで思い込むほどに動揺し、いろんな方を振り回してしまいました。
おかげで再開された公演のチケットを譲っていただくことができ、見ることができたときはただただ感動、感涙。
本当にご心配、ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。
そして、小池先生がたどり着いた今回の「ギャツビー」の舞台化が想像以上によかっただけに、この公演が大劇場で7/22~28、8/19~22までの16回しか上演されなかったことが残念でなりません。
東京公演はぜひとも全日の完走を願って、感想に移ります。

2.2022年月組版「グレート・ギャツビー」の感想

梅芸版は初演の「華麗なるギャツビー」を音楽を使ってそのまま長く伸ばしたような作品でしたが、今回は2008年日生劇場版で加えられたシーンをうまくリメイクしながら、新しいシーンが追加され、セリフもちょこちょこと足されています。

(梅芸版で変に変更になっていたセリフは戻っているのでご安心ください)

 

そして美術が松井るみさんになり、ゴージャスさも増しています。
とりわけオープニングのギャツビー邸の豪華さはさすがで、初演ではギャツビー邸の入り口だったセットが、ギャツビー邸のパーティーガーデンのようなイメージになっています。
紗幕から透けてそのゴージャスなギャツビー邸が見えてきて、楽団が実際のオーケストラと合わせてチューニングを行い、ショーダンサーたちが飛び出してくるさまは、ステキに洗練された演出だと感じました。
ただ音楽はやはり初演時さまざまなジャズエイジのミュージカル曲から使っていたため、オリジナル曲にはそこまでの魅力を感じることができず、初演時も今も日本の「ミュージカル作曲家」不足問題は厳しいなと思ってしまいました。
一方、振付けは踊る人も進化していて、ダンスシーンが全体に見ごたえがあったのが、今回最もよかったところだと思います。

 

セットは豪華になっているのはいいのですが、変わることによるデメリットも見えました。
まずギャツビーの登場シーン。セットの関係上、バンっと扉が開けない。するとやはり迫力も減る。
その代わりに続くセリフを言いながら、ゆったりと階段を下りてくる部分では、ギャツビーの優雅さを強調することができるのです。

この「優雅さ」が今回の月城かなとギャツビーの特徴かな、と個人的に思っています。
月城さんは全編を通してとても丁寧にギャツビーの心情を演じ、歌っていらして、鳳月トム、海乃デイジーとの関係性の中で、小池先生が今回より強調した「日本人的なセンチメント」をとてもスマートに表現したギャツビーでした。
そして月城さんの素晴らしい個性として生まれ持った洗練さとか優雅さとかがあると思うのですが、ギャツビーの「優雅さ」は、あくまでも後から身につけたもので、ちょっとした拍子に剥がれてしまうもの。
例えば原作(村上春樹訳から引用しています)

では、ニックがはじめて会ったギャツビーのことをこう表現しています。

彼はとりなすようににっこり微笑んだ。(中略)まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。(中略)微笑みは消えるー今僕の目の前にいるのは、エレガントだがどこか粗暴さのうかがえる一人の若い男である。

そしてニックとすっかり打ち解けたころ、ニックの言葉に対して

「過去を再現できないって!」、いったい何を言うんだという風に彼は叫んだ。「できないわけがないじゃないか!」

と激昂するシーンがあるのですが、こういったギャツビーの粗暴さが見え隠れしなかったところは個人的には残念ではありましたが、月城ギャツビーはそういうギャツビーではないのです。

それが一番出ていたのが、デイジーとの最後の銀橋のシーンだと思いました。
「裏街道には慣れているんだ」というセリフを月城ギャツビーはデイジーをまっすぐ見て言う。
小池先生のギャツビーは、本当の出自を、お金の出どころを、デイジーには知られたくない思いがある、ことは明白なのですが、バレてしまった後は、それすらさらっとデイジーに言っちゃう。デイジーの前ではどこまでもまっすぐで素直で真摯なギャツビーだったのだと思いました。そう思えるほどに月城さんはギャツビーでした。

ところで美しいギャツビー邸のセットのデメリットが個人的にはもう一つありました。見せ場のシャツシーンの衣裳キャビネットがなぜそこに?な場所にあるのです。
もちろん高さがあった方が「シャツを放り投げる」という行為の見せ場度はあがる。
けれどそのために衣裳キャビネットを変な場所に置くくらいなら、やはりシャツの方のリアルさを下げて、投げただけで舞うような柔らかな素材で作ってほしかったなと思います。
今回もシャツはシャツの形のまま、飛んでいました・・・。
そして初演映像を見返すと、どう見てもシルクでなかったらサテンか何か、とにかくもっと柔らかそうな生地なんです・・・。
梅芸版でもシャツは舞わなかったし、小道具の質が下がるのは永遠のナゾとなりました。

セットの残念さは他にもいろいろあるのですが(トムの車とか。車まったく知らないのでより忠実なカタチなのかもしれないけど、ぱっと見ダサい涙)、まあ時代が進化した分、そうしないと仕方ないのかなと思うので、よかったところをまず一つ。
T・J・エックルバーグ博士の看板と「灰の谷間」のセット。
デイジーたちの住むエリアとの格差をガンと感じさせる埃っぽさ、その中で生きるマートルとウィルソンの違いを視覚的に魅せてくれました。

で、マートルとウィルソンなのですが、この2人はどちらももう少し、もう一工夫ほしかったなという印象でした。ウィルソンは普通に生きている人誰もが少しだけ持っている狂気を、もう少しひそめてほしかったです。マートルを部屋に閉じ込めるシーンが追加されているだけに、光月るうさんにはより負荷がかかったと思うのですが、少し狂気の方が見えすぎてしまっているなと個人的に感じてしまいました。
マートルが足りなかったのは登場シーンの真ん中力なので、これはきっと東京公演が順調に重ねられる間に育ってくれると思います。期待!

次によかったセットが、アイスキャッスル。ここも猥雑さが強調されつつ、豪華さは増していました。そしてそこに転換用の板が差し込まれてウルフシェイムたちの歌になるのですが、照明もあいまってとても格好良かったです。輝月ゆうまさんは背丈もあるので存在が大きく、裏社会のボス的な余裕や当然の冷酷さが伝わり、戦争が終わってからギャツビーが生きてきた世界を見せてくれました。

アイスキャッスルといえば、足されたシーンの一つがここで、これは今回小池先生がプログラムに書かれていた

後日、(フィッツジェラルドのお孫さんの)長女の方からお手紙を頂き、その中に「日本的なセンチメントを感じた」と書かれていた言葉が印象に残り、5年後「エリザベート」を宝塚でやる時にも「日本人である自分の感受性を信じて宝塚版を創るしかない」と開き直ることが出来た。

この言葉を受けて、日本人が作って、日本人が見るギャツビーとして「センチメント」を強調したのだなと思います。
(ちなみにここで出てくる「ファルコンレア」というバーボンは架空名のようです)
足されたシーンはどれも悪くないんですよ。

とりわけ二部の始まりはこの時代のレビューと宝塚歌劇の強みをバーンと出した華やかなシーンになっているのが素晴らしい!

他も物語の説明としては親切だったり、魅せ方としてとても魅力的で面白いなと思うシーンでした。
しかしその分、ラストシーンへ駆けるスピード感はどうしても落ちてしまう。
どちらを取るのか、これは本当に難しい。
ただ初演時なくても全く問題がなかったので、わたしはなしでスピード感を強調してほしかった派です。ついでに、ラストシーンからフィナーレまで、10分休憩ほしかった。これは好き好きあると思います。

そういえば記者会見で歌われた新曲も追加されたシーンでした。

youtu.be

そしてそういうシーンだと思って見ると、歌詞も自然に思えました。
けれどあれなんですよね、デイジーとの最後の銀橋で「モーターボートで駆けつける」というセリフがあるので、モータボートあるならわざわざ「ガラスの橋架けなくてもいいんじゃね?」とかは思いましたけどね。「女はそんなロマンチストじゃない」を体現している人間ですみません。

この、わたしの永遠の憧れのセリフをいうジョーダン・ベイカー、彩みちるちゃん。
完璧すぎていうことありません。ええあれがジョーダンです。ただただステキでした。
そして対する風間ニックも純朴で、でもそれなりにいいとこの坊ちゃんのいい意味での真っすぐさがあって、だからギャツビーも打算もありながら心許したんだなと納得して見られました。
原作の冒頭を思い出させるニック像で、わたしは大好きです。

僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。

「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

(中略)

おかげで僕は、何ごとによらずものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった。

 

原作といえば、トムはこんな風に表現されています。

(前略)口もとはどことなく厳しく、態度は見るからに偉そうだった。傲慢な光を宿した二つの目が、彼の顔の中ではまず人の注意を引く。(中略)

どことなく高みから相手を見下ろすようなところがあり、たとえ好意を抱いている相手を前にしても、彼のそのような態度は変わらなかった。

もうそのまんま体現したような鳳月杏さんのトム!
原作ではギャツビーがデイジーの目の前でトムに「デイジーは君を愛したことは一度もない」って言って、デイジーに否定されるシーンがあるんですけど、「そりゃあそうだよ、このトムを好きにならないわけないじゃないか」と大納得。
今回特に強調されていましたがトムは「特権階級の人間」なのです。それゆえの傲慢さも身勝手さもある。でもそこが魅力的でもあるから、デイジーはもちろん、マートルにいたってはぞっこんなわけですよ。
そのトムの魅力を最大限に表現されていてさすがでした。

 

さてデイジーですね。

早花まこさんのこのブックレビューに

(前略)無言のまま、ただ白いバラを一輪手向ける。14歳の私にとって、その様子はとんでもなく冷酷に映った。(中略)私は、ギャツビーに対するデイジーの理不尽な仕打ちが許せなかった。

と書かれていたのが非常に興味深く、初演映像をはじめて見たとき、同居人も同意見だったとのことでした。
わたしは、これはひとえに映像で見る鮎ゆうきさんの美貌がそう見えてしまったのだと思っています。映像は映し出された視覚情報がより鮮烈に残る。そして早花さんが書かれたシーンで、画面に大きく映し出された鮎ゆうきさんのまなざしをまざまざを思い出せるほどには、映像も何度も見た身としては、あの凄絶な美しさはより冷酷にも見えただろうとも思うのです。
そして初演のギャツビーというと、もうこの鮎ゆうきさんのデイジーの美貌と切り離せないところが罪ではあるのです。

空虚で純粋で傲慢なデイジー。鮎さんのデイジーは「これだけ美しい人だから全て許される。美人ならではの特権」と納得し流されてしまった気がするのです。

でもだからあの美貌の下に隠されたデイジーの哀しみを考えてしまった。

下記は過去に書いたものですが、物語のネタバレをしているので、もしご覧くださる方はご注意ください。

stok0101.hatenablog.com

原作ではデイジーはそこまでの美しさを強調されているわけではないのです。

もちろん普通に美しくはあるけれど、どちらかというとその声や接し方で男性を夢中にさせる部分があるようにとれる書かれ方をしていて、「絶世の美女」ではない。

逆にいうと鮎ゆうきさんのデイジーは必要以上に美貌が際立ってしまった。

そしてあの信じられないくらい美しい人に魅せられて、人生をかけてしまったギャツビー、という受け取りやすい構図になってしまったのだと今は思っています。

海乃美月さんはその演技力をいかんなく発揮して、真摯で一途な月城ギャツビーに呼応するデイジーを作り出していました。

とりわけ感動したのが、2008年日生劇場版で加えられた「女の子はバカな方がいい」という歌。当初違和感があってセリフだけで叫んだほうがシーンとして締まったと思わせた歌を、デイジーの叫びとして完璧に表現。幕がおろせるその実力に唸りました。

どこか心の一部を押し殺して生きてきたようなデイジーは哀しくさえあり、そこが鮎デイジーの美貌が隠してしまったものと共通して、とても魅力的でした。

だからこそちょいちょい脚本をいじっているなら、割愛してほしかったセリフがウルフシェイムの「すごい美人だな」と、ヘンリー・C・ギャッツの「きれいな人だ・・・」です。海乃さんはもちろんトップ娘役として美しいけれど、鮎さんのように「類まれな美貌の人」ではない。だけどこのセリフがあることによって、デイジーの容姿が気にかかってしまうことが残念でした。

そして少なくともギャツビー邸のパーティーシーンのデイジーのドレスは、もっと上流階級の人間だということを印象づける上品で豪華なものにしてあげてほしかったです。

東京公演で衣装変更、というのはやはり難しいでしょうか。

 

今回のギャツビーを観劇するにあたって、原作を今一度読み直したのですが、今まで作られた舞台を頭に思い起こしながら読むと、改めて小池先生がものすごく大胆な発想で舞台化されていることに気づきます。

とりわけ真夏のニューヨーク旅が、ミュージカルらしいゴルフコンペのシーンに差し変わっているところなんて、ジョーダンのゴルファーという設定から思いついたのでしょうけれど、ものすごいアレンジだと思います。

そしてあのラストシーン。

英真さんのヘンリー・C・ギャッツが初演の岸香織さんを思い出させる、どこか「陽」っぽい持ち味の父親で、その父親が微笑みながら少年のギャツビーのメモを読みあげる。

この辺りでこみあげてくるものがあって、もう何度か見たあのラストシーンがやってくると、一人の人間の生きざまを深く胸に刻み付けられて呆然としてしまうのです。

だから、このシーンのあとに、頭ではわかっていたけれど、これが七色に輝きだしたときは、ちょっと気持ちがついていけませんでした(汗)

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でもそのくらい物語に入り込める作品になっているし、キャストは本当によく演じています。

そしてこれに至っては約100分くらいに縮めなければならない新人公演もぜひ見たい!

現状はとても厳しいですが、祈ることぐらいしかできないので、心の底から東京公演の完走を祈っています。