こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

生きること、働くことの意味@鱈々(プゴテガリ)

11月6日 18:00~ 新歌舞伎座
作 李康白(イ・ガンペク)
演出 栗山民也

ジャーン 藤原竜也
キーム 山本裕典
ミス・ダーリン 中村ゆり
トラック運転手 木場勝己


初の韓国作品でした。
脚本の李康白氏は韓国現代戯曲の第一人者らしいですね。
本来のタイトルは「プゴテガリ」、鱈のあたまという意味とのことです。
下記の戯曲集に入っている一作でした。
ホモセパラトス―李康白戯曲集
秋山 順子
影書房

公式サイトで李康白氏が下記のように述べておられました。
現代社会を生きる人間を、小さな倉庫で暮らす存在のなぞらえた」

その通り、とても抽象的な作品で、だから、正解のとらえ方は李康白氏しか分からないと思うし、どう感じても、それは自分の中で正解なのだと思います。
ざっと紹介すると下記のような内容でした。
狭い倉庫の中に2人の男が働きながら暮らしています。
物心ついた頃から2人は一緒に働いているようです。
キームは35歳とセリフにあるので、少なくとも20年近くは2人で働いているのではないでしょうか。
2人の仕事は伝票の番号どおりに荷物を受け取り、整理し、出荷すること。
荷物の中身は現在はまるで分からなくて、同じ形の箱に番号が書かれているだけです。
ジャーンはこの単調な仕事を確実にこなすことを生きがいにしています。
一方のキームはこの仕事に飽き飽きしており、夜な夜なミス・ダーリンと遊びに出かけます。
そして、ある日、キームはミス・ダーリンに入れ知恵されて、わざと間違った品物を出荷します。
ジャーンは、間違った品物が誤って使われたら大変だと心配するのですが、クレームの連絡一つきません。
単調だった2人の日々が、ミス・ダーリンとその父親のトラック運転手にかき乱されはじめるのです。


さて、中身が分からない箱とか何なのか、狭い倉庫の中で淡々と確実に仕事をこなす意味はあるのか、色々と考えてしまう、面白い作品でした。
また、照明も抽象的で面白く、座席的に上手側の壁が見えなかったのが残念なくらいです。
下手側の壁には場面によって光で線が描かれていて、あれが何を意味していたのか、も思わず考えてしまいます。
ただ一つ確実に言えることは、この作品をやるには「新歌舞伎座」は広すぎました。
セットは広い舞台を狭く見せようと実に工夫されて組まれていましたが、2人が感じている閉塞感を観客も感じられるような小さな劇場でやれば、この作品の魅力はもっと伝わったと思います。
閉塞感、もこの作品ではとても大事なキーワードな気がしたからです。

例えば、医療の現場とか美容師さんとか、直接エンドユーザーに関わるお仕事をされている方が見たらこの作品はどう映るのだろう、とちょっと思います。
というのも、中身の分からない荷物を受け取りまた出荷するというのは、エンドユーザーの顔を見ない多くの仕事がそうじゃないのかなと思うからです。
私自身、中身は知っているけれど、クライアントから受取り、形にして、またクライアントに戻す中で、自分のやっていることは本当のユーザーにどう感じられているか、全くわからないのです。
だから、「1時間でも確実に1人を幸せにできる」アロマセラピストの仕事に憧れを抱いていた時期があったくらいです。
てか、今でも憧れています。
そのくらい、仕事というのは「誰かの役立っている」実感はないものです。少なくとも私は。
そういう意味で、ジャーンの虚しさみたいなものはよく分かるし、じゃあ「仕事」ってなんなんだろう、と考えてしまいます。
もちろん、ジャーンも私も「仕事」の対価をいただいているからこそ、ちゃんと「仕事」しようと考えているし、生きていけているわけです。
でも、それだけでいいのか、と考えるのがキームなのかもしれません。


とかなんとか言い出すとそれこそ色んなことが気になってくるのです。
昔は箱には商品名が書かれていたのに、今は番号のみとなって中身が分からないということは、例えば人間を番号で管理すると中身が見えなくなるということか
とか
本来干し鱈の身で作るスープを身がないから、残った頭を大事に保管しておいて、それでスープを造ったり、俺の代わりだと思ってくれとか言ったりするのは、身よりも頭が重要だということなのか、それとも頭まで残らず搾取しようとする世の中の比喩なのか
とか
考え出すときりがないのです。
なので、結論は
これ、毎日見たいなあ
に辿りつきます。

毎日見たら、いつかきっと、ふっと全てが腑に落ちる瞬間がやってきそうな芝居なんですよね。

そうそう、一部では藤原竜也が同性愛者を演じる、とか話題になっていたようですが、実際は、まあ、そういう風にみようと思えば見える、程度です。
確かに、藤原竜也演じるジャーンはキームに過干渉なのですが、家族か兄弟に執着するような感じにも見えるんです。
とりあえず、ジャーンがキームに執着していることは確かです。
なので、キームに恋する藤原竜也にキュンキュンしたい人はそういう風に見て楽しめるのもこの芝居のいいところだと思うのです。
楽しみ方は無限大です。

そして、そんな楽しみ方を出来てしまうほどに藤原竜也が可愛いです
彼は舞台に立つとどうしてもこうもピュアさを感じさせるのでしょう。
だから、呆れるほど生真面目で狭い世界で生きていくジャーンが、とてもナチュラルなのです。
山本くんのキームは35歳には残念ながら見えなかったけれど、単純でいつまでたっても子どものままのような弟キャラを魅力的に演じていました。
木場さんは安定の木場さんで(笑)今回はじめて見たのですが、ミス・ダーリンの中村ゆりさんがすごく小悪魔的ながらも、どこかしら闇を感じさせる演技で素晴らしかったです。

しかし、終わったあとも彼ら3人(まあ木場さんの運転手はそのままの人生を全うすると思うので)のその後の人生がどうなるのかも考えずにはいられませんでした。
選んで決めて進んだ人生だけど、変化したこれからの現実に彼らがどう向き合っていくのか、それは予想よりもうまくいくのか、それとも破たんしてしまうのか、色々なパターンを想像するのです。
結局、それもまるっと飲み込んで、人生、というものを描いた作品なのかもしれません。

ところで、どうでもいいけど調べてみたら、干し鱈のスープ美味しそうです。
http://www.seoulnavi.com/special/5025455
頭じゃなくて身で作ったものを食べてみたいものですw

それから、これで私の秋の観劇ラッシュはおわりです
後は来月に1作見れるかなーという感じです。
とは言え、来年は念願の作品や面白そうな作品が次々くるので、当面お財布と相談の日々は続きそうです