こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

許されたいものたち@復活ー恋いが終わり愛が残った

原作は未読。ただ、今回の芝居を見て、非常に興味深く思ったので、読んでみようと思っているが、以下の感想は花組の芝居を見た中で思ったことなので、原作とは多いに違うだろう点はご容赦願いたい。

そう言えば、ロシア人だった私の演劇の先生が、チェーホフの「THE WITCH」をやっている時に、とにかく吹雪で閉じこめられるのだ、と何度も私たちに言ったことを思い出した。ある一定の閉塞感の中で何に向き合うのかというと、それは自分ではないだろうかと思う。
原作を読むと違うのだろうけれど、今回の花組の芝居の中でのネフリュードフは、私には、ひたすらに自分の贖罪のために行動する男に見えた。
カチューシャの事件は、今まで一点の曇りのなかった彼の人生の中で、はじめて感じる「挫折」に近いものだったのじゃないだろうか。自分の脱落なら自分自身で責任を取ればいい。けれど、彼は一人を女を底知れない不幸に最終的に陥れた呵責に耐えられなかった。青年らしい軽い恋の火遊び。若者なら多くが通るその道で、普通に貴族の男として振る舞った彼は間違いを犯したことを後で知る。彼の育ちの良さ、人の良さ、それが彼自身を責め立てる。どうしたらこの自責を拭えるのか、それが彼の行動の全てであったように思う。そして、カチューシャは彼の自責の念をはらしてくれるただ一人の女だった。神の愛は許しであり、彼は許されたかったのだ。

カチューシャ本来はもっと「知性」のある女だったと思う。その辺りを蘭乃はなが演じられなかったのは残念だけれど、使用人でありながら、読み書きを覚え、ドフトエフスキーを読むという女はその知性ゆえにプライドも持っていただろう。そして、おそらくそこがネフリュードフや他の男をひきつけた最大の要素だったに違いない。私は他とは違う。けれども若きネフリュードフの行動はその辺の女どころか、商売女にする対応だ。このとき彼女のプライドがどれほど傷つけられたかは想像に難くない。この時に彼女はまず現実を知ったと想像する。なんであろうと身分のない「女」でしかないことを。そして、不幸な現実の重なりがますます彼女を追い込む。そうして彼女は変わっていくのだ。
身を落とした自分を彼女は彼女自身が許せなく受け入れられないのだと思う。そのプライドゆえに。だから酒に逃げる。そして、そうなる根本であったネフリュードフと再会するとき、彼女は何を思っただろうか。私は恨みよりも恥じらいだっとと思う。そして、彼女はかつての自分を思い出したのではないだろうか。誇り高く清らかで世間知らずだった自分。苦々しい思いと甘い思い。ネフリュードフの影が彼女につきまとうたび、彼女はその間でさいなまれ、過去の自分と今の自分をいったりきたりする。そして、彼女はネフリュードフに「あんたが私の最初の客だ」と告げることで、そのささやかな復讐を果たすのではないだろうかと思ったのだ。さらにシモンソンとパーブロアとの出会いで彼女は本来の自分を取り戻すのだろう。とりわけパーブロアの存在は彼女にとっても、逆にパーブロアにとっても大きかったのではないだろうか。信頼できる友を得て、彼女は彼女を取り戻す。だから、全てを投げだし尽くしてくれるネフリュードフを愛おしく思うからこそ、辛い。現実的な辛さとは違う心の呵責。そして一度落ちた自分への恥じらい。彼女はネフリュードフと結婚して誕生した子に自分の身に起こったことを告げることは絶対できないと確信していた。本来のプライドの高さゆえに。子供のことだけではない。ネフリュードフといる限り、彼女は自分を傷つけることから逃れられない。彼女はやはり自分自身が許せず、けれど、許されることを願っていた。そして、許してくれるのはシモンソンだったのだ。
シモンソンに関して、この芝居では殆ど描かれていないに等しいので、勝手に作り上げるしかないのだけど、彼は愛したい人だったのだと解釈した。神のように。そして、分かりやすく傷ついたカチューシャがそこにいた。

許されたい、というのは私の中にある願望で、だから余計この物語を許されたい話なのだと受け取ったのかもしれない。なので、原作もそうなのかもしれないけれど、お正月公演らしいラストシーンは少し余計に思えたのが残念だった。けれど、一番残念なのは、カチューシャだろう。蘭乃はなのカチューシャは、彼女の「カチューシャ」が全く見えない型の芝居でしかなかったから。そして、理想のカチューシャを見てみたいと思うとき、意外にこの作品にはめられている気がする(笑)