こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

目に見えない「心」を見せるために@世田谷パブリックシアター「う蝕」

3/9 17:00~ @兵庫県立芸術文化センター 中ホール

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スタッフ
【作】横山拓也
【演出】瀬戸山美咲
【美術】堀尾幸男
【照明】齋藤茂男
【音響】井上正弘
【衣裳】髙木阿友子 

キャスト
坂東龍汰 近藤公園 綱啓永正名僕蔵 新納慎也相島一之

 

う蝕とは虫歯のこと、らしいです。
けれどこの作品で登場する「う蝕」は、虫歯のようにいつの間にか大地を蝕み、陥没させ、上にいた人間を落としてしまう災害のことでした。
何であれ「命が失われること」に私たちは心に傷を負うのかもしれません。
それが自然災害であると、何も出来なかった、自分だけ安全な場所にいた、さらに失われた命に遠隔的にでも自分が関与していると感じてしまう場合、罪悪感が押し寄せてくることがあると想像します。
2021年の朝ドラ

の前半で描かれたのも、言葉にできない「罪の意識」だったような気がします。
朝ドラの主人公が、どうしても言葉にできなかった思い、その思いが出来上がるまでの思考回路を演劇という形で言葉にしたような作品だと、私は受け取りました。

「う蝕」が起こった本土から離れた「コの島」で、せめて災害死した人たちを特定し、遺族に戻そうと島の歯科医が、その作業を手伝ってくれる歯科医を要望して、そこに二人の歯科医がやってくる。その後、2回目の「う蝕」が起こる。見つかっていた遺体も、カルテも何もかもが土の下に沈み、それを掘り返し、改めて作業をしたいと願い、土木作業員を要請するものの、やってきた役員はどこか不自然で不気味。さらにもう一人、先に来ていた歯科医に「コの島」行きを変わってもらったという歯科医が、状況を確かめるためにやってくる・・・。

冒頭の緊迫感のあるアナウンス台詞から続く不気味な音、その後の暗転による暗闇からはじまるのですが、深刻な災害が起こったとは思えないほど、鷹揚な会話が多い作品でした。その言葉の中に「何があって、何がないのか」という会話がありました。
「目に見えないもの」を「ある」とするのは何なのか。「愛」という言葉はあるけれど、その存在証明はできない。「死」はある、けれど「死後の世界」はあるかどうか分からない、では「心」はどうだろうか。
そんな会話を聞いて見ながら考えているうちに、「目で見えていること」を「ある」ことにしていた自分に気づかされる展開になったのです。
宝塚版「ロミオ&ジュリエット」を思い出させる問いに、さらに「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」でサディストの歯科医を演じていた新納さんが、その役を思わず思い出させてしまうようなやり取りをするシーンもあるのに、「Next to Normal」と同じ仕掛けに気づかなかった自分が悔しいし、さらに仕掛けがわかった後にもう一度見たかったと思います。
そして改めて「人の心」というのは解明されていない闇で、それを表現するのに演劇というか、舞台というのは割と有効な手立てなのだなと思いました。
ただそこに囚人を登場させて「人間の尊厳」の話が絡んでいくよりも、どちらかということ「心の問題」だけにフォーカスした方が、もしかしたら、より興味深い作品になったような気がしています。

作品の中で「考えるのをやめたいから祈る」というような言葉があって、それが個人的には衝撃でした。
私は、このような哀しい災害、事故、事件、他国での戦争などについて、自分に直接被害がなく、できることが見当たらないとき、唯一のできることとして募金とともに「祈り」を捧げてしまいます。
祈る、という行為は「できる」けれど、「祈り」という「念」は存在証明のできない、無力で何にもならないことなのかもしれない、と思ってしまいました。
けれども多分「祈る」ことは、心を癒す、ことはあるような気がします。ただ癒してくれるのは祈っている自分だけで、そうすると、こういった他者の悲劇に「祈る」のはどうなんだろうか、という私の中の「問い」を見つけた作品でもありました。

 

セットは割と大がかりなのですが、一度だけ、1回目の「う蝕」後のシーンになって、他は変わらないので、あそこまで大きなセットを作る必要はあるのかなと思いましたし、何を表現したくてあのセットになったのかが、私は受け取ることができずに残念です。もしセットをシンプルに出来て、チケット価格が抑えられるのなら、この公演は2回見てもらう仕掛けの方がいいと個人的に思いました。
衣装の方はシンプルだったのですが仕掛けが分かりやすくしてあって、だから衣装で気づけなかった自分もまたちょっと悔しくなってしまいました。(あと新納さんの衣装がめちゃくちゃ可愛くてお似合いだったので、ファンとしては嬉しかったところもあります!笑)
キャストについては、近藤公園さん、正名僕蔵さん、相島一之さんの手堅い芝居に、多分セリフのテンポも間も一番難しかっただろう坂東龍汰さんがよく頑張っていたな、という印象でした。そして綱啓永さんはこの公演をきっかけに、舞台に立つ上での身体の動かし方というところを意識してくださったらいいなと思います。
役と本人は別物で、本人の経歴なんてものは観客には関係ないことなんですが、今回、災害によって心の痛みを抱える役を新納さんが演じていたことは、少なくとも私にはより響くところがありました。
新納慎也さんは19歳のときに神戸で「阪神・淡路大震災」を体験されています。
それがどのような体験であったかは存じませんが、大阪に暮らしていた私とは違う景色を見て、違う体験をされたことは、この時のブログから推察しています。

ameblo.jp

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その新納さんが語る「心の持っていきようのなさ」は、多分、必要以上に重く私に届いてしまったとは思っています。
しかも私が見たのは「兵庫県立芸術文化センター」で、これが建つ西宮市は阪神・淡路大震災で大きな被害を受けました。それから10年後に復興のシンボルとして作られたのがこのホールだったのです。

8月号 芸術文化の発信拠点 兵庫県立芸術文化センター10年のあゆみ|西宮市ホームページ

阪神・淡路大震災25年事業 西宮市歴史資料写真展「まちが変わる まちを変える」|西宮市ホームページ

私は残念ながらこのホールが出来る前の西宮北口を知りません。
このホールが出来てから、よく訪れるようになった場所で、そこそこの数の作品をこのホールで見てきましたが、このホールができる前、のことを考えたのは、この作品が初めてでした。
そういう意味でも、この作品をこの「兵庫県立芸術文化センター」で上演した意味はあると思います。
そして、東日本大震災から13年目を迎えた今日、限られたことでも、小さなことでも、自分にできることをしていきたいと思っています。