こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

孤独と干渉どちらがマシか@シス・カンパニー「出口なし」

9/29(土)18:30~ サンケイホール・ブリーゼブリーゼ

ガルサン 段田安則
イネス 大竹しのぶ
エステル 多部未華子
ボーイ 本多遼
[演出/上演台本]小川絵梨子

サルトルというと世界史の中で「哲学者」としてちらっと学んだ記憶がある程度です。たぶん多くの日本人がそうじゃないかなと思います。
わたしも実は英国に行くまでこの戯曲のことを知りませんでした。
知ることになったきっかけは2004年のエジンバラ・フリンジ・フェスティバルにロンドンで勉強させてもらっていた小劇場劇団がこの作品も持って参加することになったからです。

(当時のポスター。5つのうち3つにスタッフとして参加しました)
その際にわたしは事前に送られてきた英語の台本を読んだのですが、さっぱりわからない。
仕方ないので、渡英前に大阪市立中央図書館の書庫から日本語訳の本を出してもらって読みました。
でも日本語で読んでもわからない。
そして渡英して稽古に参加しはじめてもわからない。

そんな「出口なし」とはこんな話です。
窓がなくたった一つの扉とブロンズ像、そして3つの椅子が置かれているだけの部屋がある。
そこにボーイに連れられて元ジャーナリストのガルサンがやってくる。
はじめてこの場所に来たガルサンはボーイにあれこれ聞くが、ここがそこであり、想像していたものとは違うようである。
すると次に郵便局員だったイネスが入ってくる。
彼女はここに来た理由を自分でわかっているという。
最後に裕福な若奥様であるエステルが登場。
無邪気な彼女はなぜこんなにところに自分がやってきたのか皆目見当がつかないという。
しかしながら3人は話をするうちに本当の自分をむき出しにしていく。


「出口なし」は本題を「Huis clos」といい、このフランス語を訳するときに「NO EXIT」となり、その英語を日本語に訳したため「出口なし」というタイトルがついたと聞いたことがあります。
本来は「接見禁止」とか「傍聴禁止」とかそういう意味だそうです。

わたしはスタッフで参加しましたので、稽古期間も含めるとこの芝居を丸2か月ほぼ毎日見ました。
けれど日本語で見るのははじめてで、改めて日本語で見てみると「出口なし」というタイトルもこの芝居にあったいたように思います。
扉のセットが象徴的だったのも、日本語タイトルを意識したようにも見えました。

わたしが参加したロンドンの小劇場劇団はこの芝居をエステルのWキャストで上演しました。
そのエステルの違いが明確に理解できだしたころ、やっとわたしはこの芝居の面白みに気付いたのです。
さらにやはり観客が入ると芝居は毎日変わります。
ある日見ながらひたすら笑っているカップルが客席にいたことがありました。
わたしには爆笑するポイントがさっぱりわからなかったのですが、演じている役者たちも「本来この話は滑稽な部分ももっているんだ。今日のような反応があると嬉しい」と言っていたその意味を今回の日本語での上演をみて、やっとわかりました。

ガルサンとエステルは俗悪的で、イネスは厭世的な人物です。
そんな3人がもつれあうさまはうんざりと醜い
けれど会話の端々やちょっとした間が笑いを産んだのです。

日本語ありがとう!(涙)
(そしていかに英語ではそこまで理解できていなかったか痛感しました…涙)

悲劇は喜劇になりうるのは人生の常で、人と関わらず生きていくのはほとんどの人にとって難しく、孤独をとるか人と関わって傷つくか、どちらがマシかは究極な選択な気がします。
「人と関わり傷つけあう」という環境を与えられ、それから逃れられない苦痛を味わう彼らの姿はどこか現代のわたしたちとも重なるところがあって、人間というのはどんなに時が経っても変わらない動物であることを改めて知りました。

今回の芝居ではそのスリリングさと滑稽さがとても面白く、興奮しながら見ました。
(この芝居は3人の本性が少しずつ分かってくるところも面白い部分なので、ネタバレなしの方向で書いてます。わたしは見る前から、そこがどこかも知ってるし、3人がどんな人間でどんなことをやってきたかも知ってるし、結末も知っているのにスリリングなんです。そこがすごい!)
わたしの中では、ガルサンは紳士のふりをしている臆病なオオカミなイメージだったのですが、段田安則さんのガルサンは「単なるみえっぱりのおじさん」でそれが今回の芝居に面白みを与えていたように感じました。
大竹しのぶさんのイネスはさすがの一言。
白いブラウスに黒ロングのタイトスカートという衣装もひじょうに似合ってらして、イネスらしかったです。
そして実はわたしが一番心配していたのがエステルの多部未華子ちゃん。

前述したようにわたしはエジンバラで二人のエステル(二人ともブロンド美女だったことを付け加えます)を見ています。
一人のエステルは本人も元々成熟した人で、行動的だったこともあり、エステルのすべての行動が「美しさを武器に、自分の感情の赴くまま楽しい人生を送れるように工夫していた」ような女性像だったのです。
彼女自身もエステルはどこか「計算して」行動している、と思って演じていると言っていました。
だからこそエステルが浅はかで哀れに見えたものです。
もう一人のエステルは実年齢が20歳そこそこで、エステルの幼稚さ、単純さ、そして美しく産まれた者だけがもつ傲慢さをもっていました。純粋だからこそ残酷さが際立ったのです。

ということで、わたしにとっては、エステルが「美人」であることは絶対条件だと思っていたのです。
けれど多部未華子ちゃんはかわいいけれど、決して「美人」ではない。
そこをどうするのか興味津々だったのですが、おじさんのガルサン、おばさんのイネスに囲まれたとき、彼女のもっている「若さ」が美しさになることがわかりました。
(ロンドンの劇団では当時女性陣は全員20代前半、ガルサンも30代半ばでした)
多部未華子ちゃんのエステルは「自分の若くかわいいところが男性にとって魅力的に映ること」に確信をもっている女のコでした。浅はかながらも考えて行動している人に見えました。そういう意味では上記の一人目のエステルに近かったです。
「わたしを離さないで」よりも個人的にはキュートで魅力的で好きでした。

この芝居、東京は新国立劇場の小劇場で上演されたそうですが、正直そのくらいが最大限だったと思います。
サンケイホール・ブリーゼブリーゼでは舞台そのものも大きすぎて、それをいかに閉鎖された空間にみせるか、カーテンを奥に向かって斜めに引いたりして工夫されていました。
もちろん他のセットは奥の扉と呼び鈴、そしてブロンズ像と3脚の椅子だけです。
それだけでこれだけ濃密な芝居が産まれるすばらしい作品です。

戯曲の日本語版は絶版になっていて購入が難しいのですが、英語版ならkindle版も比較的安価で手に入りますので、よろしければ。
No Exit and Three Other Plays (Vintage International)
Stuart Gilbert
Vintage


ラスト近くの、ガルサンとエステルが共謀してイネスを痛めつけるシーンのイネスのセリフが、英語版のほうがリズムがあっていいんですよね。Cowardが臆病者となるだけで、言葉としてはもちゃっとしてしまうのがちょっと残念でした。そしてイネスのセリフがこのシーンを「ショー」的に見せようとしているのですが、日本語ではそこまでなりきれないのも残念。
英語だとこのイネスのセリフです↓↓↓
Do as you’re told. What a lovely scene: coward Garcin holding baby-killer Estelle in his manly arms! Make your stakes, everyone. Will coward Garcin kiss the lady, or won’t he dare? What’s the betting? I’m watching you, everybody’s watching you, I’m a crowd all by myself. Do you hear the crowd? Do you hear them muttering, Garcin? Mumbling and muttering. "Coward! Coward! Coward! Coward!"
このセリフ回しがうちの劇団のイネス役を演じたコがうまくて、未だに耳に残っているんですよ。
そう思うと意味は全く分からないだろうけれど、フランス語でも見てみたいです。