こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

マイ・ミュージカルつぼを分析してみるw

先日、ミュージカル好きの友人と話していて思ったことをつれづれに。

★音楽の好み。
友人の一人が「エリザベート」はめちゃめちゃ好きなのに「モーツァルト!」には惹かれないのは何故だろう、という話をする。
ストーリー、キャラクター、色んな要素はあるから、そちらは一先ず置くとして、私も「モーツァルト!」の音楽は全然残らなかった。(もう一人の友人は「モーツァルト!」派)
そして、「エリザベート」も10数年前に宝塚の初演を見た時、最も記憶に残って格好良いと思ったのは「最後のダンス」だった。
つまるところ、「最後のダンス」のクラシックとロックの絶妙な融合、というところが私のツボだったことを認識。

基本的にジャズ、次いでロックのリズムが好きなのだろう。
だから、私のベストミュージカル音楽は「ニュー・ブレイン」だな、と思う。
そして、やっぱり「キャバレー」や「CHICAGO」の音楽がとても好きなのだ。

ということで、宝塚のショーも、流麗なものも大好きだけど、ベーシック「ザッツ・ブロードウェイ」調のオーソドックスショーはテンションがあがる。
だからディズニーシーでも、「ミスティック・リズム」も大好きだけど、DNAレベルで「ビッグ・バンド・ビート」にテンションがあがるのだなあと思った。

★規制の中での創造。
確か、NHKの人形劇「新・三銃士」で三谷幸喜が「キャストのビジュアルも今までの中で一番イメージ通り、完璧です」的なことを述べていたのを読んだ気がする。
映画やドラマも舞台に比べたら制約は少ないけれど、それでも生身の人間と使う、という制約があったのだなあ、としみじみ思った。

本当に舞台というものは制約が多い。
決まった箱の中で、決まった人間からチョイスして作り上げなければならない。
できることは限られている。
けれど、その制約が多いからこそ、魅力的なんだなあと改めて思った。
そういう制約があるからこそ、ジュリー・テイモアが「ライオン・キング」をああいう風に舞台に乗せたときに感動したのだ。
あらゆる創造の中で、それでもやっぱり舞台が好きなのは、そういうところなのかもしれない。

ところで、宝塚はその制約がこれまた色々多いところである。
他の舞台では出来ないことが出来るけれど、出来ることが出来ない。
それを感じたのが、やはり「スカーレット・ピンパーネル」。
元々のオリジナルはブロードウェイ作品。
主人公の敵役は恐らくオリジナル作品では、同年代か年上の、実力も同等程度の役者が演じていたことだろう。そして、その主人公と敵役の、ヒロインを巡るトライアングルも見せ場の一つだったと想像できる。
しかし、宝塚は本当に色々制約のあるところで、準主役をする人まできっちり決められている。
敵役は準主役をやる役者の仕事だ。
そして、上演された二回とも、主役よりもずいぶんと年若い、キャリアの少ない役者だった。
他の舞台なら、イメージにあった役者を配することが出来るだろう。
けれども宝塚では出来ないのだ。そして、年若い彼らをそういう役を演じさせることで育てなければならない。より完成度の高いものよりも、次世代の育成が優先される。
そういうところが宝塚の欠点で、面白いところなのだと気づいた。
制約によって、色々変更することで、また新しい何かを、オリジナルを生み出す、という意味では、宝塚は本当に面白い。
面白いけれど、それが、私が宝塚は学校である、と感じている最たるものだと思った。