こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

アラフィフ負け犬がビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

最高の日本産グランドミュージカル@ミュージカル「生きる」

11/14(土)12:00~ 兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール

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作曲&編曲:ジェイソン・ハウランド
脚本&歌詞:高橋知伽江
演出:宮本亞門

配役
渡辺勘治 鹿賀丈史
渡辺光男 村井良大
小説家 新納慎也
田切とよ 唯月ふうか
渡辺一枝 May'n
助役 山西惇

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原作は黒澤明監督のこの映画です。

 

生きる

生きる

  • 発売日: 2015/04/22
  • メディア: Prime Video
 

 

この映画を初めて見たのは、20歳そこそこの頃。
記憶に残っているのは二つでした。
①淡々と普通の人の人生、その終わりを描いているなあ。
②雪の降る中で主人公がブランコをこいでいたなあ。

2018年に日本オリジナルミュージカルとして作られたということと、上記二つの記憶のみで見に行ったのですが、これがまさかこんなにすごいグランドミュージカルだったことに驚きました。

まず何より楽曲がいい。
脚本と作詞が日本人、作曲がアメリカ人。
その融合はどうやったのだろうと不思議なくらいマッチしていて、重厚なバラードから、絶妙な音の重なりを生み出すコーラス、ブラックユーモアに満ちたテクニカルな曲、軽快なダンス曲とさまざまあるのですが、この作品を「グランドミュージカル」と語るのにふさわしく、どれも音が厚く壮大なのです。

さらに亜門さんの洗練されつくしたステージングが見事。
とりわけ一部最初の方の、市役所でたらい回しにされる女性たちは、「たらいまわし」という言葉がそのままビジュアル化されていて、視覚的にも体感的にも実感をもって伝えてきました。
その市役所のセットの象徴的なモノとして大きな時計があるのですが、これが二部でぐるぐると針が回ったときに「この時計は命をも刻んでいるのか」とやっと気づいた自分の鈍感さを嘆きたくなるくらい、素晴らしいセットでステージングでした。

 

原作映画とミュージカル版のストーリーはほとんど一緒です。
30年間一日も休まずに、ただ機械のように市役所で働く主人公・渡辺勘治。
ある日検査で自分の余命が短いことを知る。
妻は若くして亡くなっており、成長した息子・光男とその妻・一枝と同居しているものの、ほとんど交流はなく、自らコミュニケーションを図ろうともしていない。
空っぽの今の自分に気付いた主人公は、これで自分は「生きた」といえるのだろうかと自暴自棄になるものの、死ぬこともできない。
そんなとき、かつての部下だった小田切とよから「何かを作ってみては」との提案を受け、市役所に下水で汚れている土地を公園にしてほしいと訴えていた女性たちを思い出す。
「公園を作る」ことを決意した渡辺勘治は、あれこれと積極的に働き出すが・・・。

ミュージカル版では昭和27年であることと、定年間近であることに触れられていたのですが、映画版にはその説明はありません。
映画がそれこそ1952(昭和27)年に現代社会を描いたものとして公開されているので、その辺のことは見ればわかるものだったのかもしれません。

昭和27年は今では少し遠くなり(「ゴンドラの唄」が主人公の青春時代に流行った曲、というのは今ではすぐには認識できないのが残念)、戦争の悲惨さを実体験していない身としては逆に高度成長に向かって活気ある感じが羨ましくもなるような華やかなシーンもありました。


しかし全体にセットはコンパクトにまとまっているのです。だからこそラストシーンの舞台全体につくり込まれたセットに息をのみ、物語の展開と役者の演技&歌、そして照明があいまって、あまりの美しさに涙せずにはいられませんでした。

(さらにカーテンコールでフル照明の中、このセットが登場するのですが、ここの演出まで行き届いているのがすごい!)

人間すべてに通じるテーマであるし、多くの人々がどこか共感することができる作品だとも思うので、ぜひこのコロナ禍がなんとかなったら、その国に合わせて世界進出してほしいと願います。

 

ミュージカルを見てから映画を見直したのですが、この映画にはナレーションが入っています。映画版にも「渡辺の自暴自棄期間」に登場する小説家を、役は役として残して、狂言回しとしてナレーターも担わせたのがまずいい。
映画で印象的だったものの1つが、渡辺勘治役の志村喬さんの「目の演技」。
それをミュージカルではミュージカルらしく「歌」で表現しています。
その歌の中でも「二度目の誕生日」と「青空に祈った」が圧巻。

わたしが見た回の渡辺勘治役は鹿賀丈史さんだったのですが、KOBELCO大ホールですらその広さを全く感じさせない大きな演技と素晴らしい歌声。
3階で拝見したのですが、久々に3階席で見る、聴く喜びを感じました。
KOBELCO大ホールは通常はオーケストラ、オペラ、バレエを主に公演している本当に大きなホールなので、4階席まであります。
鹿賀さんの視線がその4階席まで普通に伸びていて、空間全体を覆いつくしていることに感動。
プログラムに市村さんが浅利慶太さんから言われたという有名なエピソード「お前はステーキの横のクレソンだ」が対談コーナーで掲載されていたのですが、その「ステーキ」だった方は違うな、と改めて実感しました。

映画では主人公が息子との思い出をプレイバックするシーンがあるのですが、ミュージカルでは「母親亡き後、口を利かなくなった息子と公園に行ってブランコに乗せたら、やっと笑ってくれた」というエピソードが語られ、歌になります。


その息子を今回の再演から演じた村井良大くんがまたいい。もう「どこかに、どこにでもいそうな普通の青年」をミュージカルでやらせたら、彼の右に出る人はいないような気さえします。鹿賀さんは歌い出したら「ミュージカルスター」で「普通の人」ではなかったけれど、村井くんはどこまでも「普通の人」を感じさせるのが、このミュージカルの中でリアリティを産んでいたように思うのです。

 

小説家役の新納慎也さん。ファンなのでもう何もいうことがない(笑)和服姿かわいい(笑)
KOBELCO大ホールの音響のおかげもあると思いますが、歌唱力があがっていたのが嬉しかったです。そしてこの作品への、さらに渡辺勘治への尊敬と愛にあふれた姿は、観客と舞台をつなぐ「狂言回し」としての1つの在り方だったと思います。


田切とよを演じた唯月ふうかさん。歌唱力も演技力も確かで可愛く、絵面的に暗くなりがちなこの作品を明るく彩ってくれました。高音域になると響きが金属的で気になったのですが、これは音響せいかもしれません。
一方、妻・一枝を演じたMay'nさんもすごくよかったんですよ!この作品の初演が初ミュージカルとのことですが、セリフの声のトーンも明瞭で聞き取りやすく、歌声も歌詞がとても聞き取りやすく心地よく、ぜひともこれからもミュージカルで活躍していただきたいです。そしてこういう人を見出してくるのもさすが亜門さんですね。

 

助役の山西惇さんは一応憎まれ役ではあります。しかし余命宣告のシーンもそうでしたが、ブラックユーモア的に描かれていて、役どころと舞台とのバランスを持った演技がさすがでした。
海外だとカーテンコールでブーイングが起こる役どころだろうなあとか思うと、ますますこの作品の海外進出を見たいです。

(何役もこなしたアンサンブルの方々も皆さんうまくて、コーラスのハモリも絶妙で耳福でした)

そしてその時にはぜひ、パンフレットのビジュアルをポスターにしてほしいものです。

せっかくステキなビジュアルなのにパンフレットとグッズにしか展開されていないのがもったいない。

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この作品は11/30(月)の名古屋公演が大千秋楽となるのですが、鹿賀さんバージョン、市村さんバージョン両方の有料ライブ配信が決まっています!

horipro-stage.jp


見逃している方はぜひ!お値段4,800円とちょっとお高めですが、見れば高くないことがお分かりいただけると信じています!
(もちろん、わたしも見ます!思い余って福岡か名古屋まで再度見に行くことを考えたので、それに比べたら安いし、ありがたい!そして福岡&名古屋でご覧になられる方はたっぷり期待していって大丈夫です。ぜひお楽しみください)

 

ところで渡辺勘治はどこにでもいる「市井の人」だと映画の説明に書かれていました。

映画の原作はトルストイのこちらの作品とのこと。

 

イワン・イリッチの死

イワン・イリッチの死

 

 

この小説をせっかくなので、この機会に読んでみたのですが、こちらの方が俗人的というか、現実に近いなと感じました。

というのも、わたしの父も彼と同じように定年の1年前に余命3ヶ月が判明し、きっちり3ヶ月後に死にました。
その間に我が家で起こったことは、小説の中のイワン・イリッチと同じで肉体的な苦痛と「死にたくない、死ぬのが怖い、ただ生きたい」と願う精神的な苦痛から、死ぬにはちょっとばかり早かった人の多くが巻き起こすことではないかと思います。

それと比べると渡辺勘治さんはただの「市井の人」ではない。最後には死を受け入れ、死の前に「命を燃やして誰かの役に立つ、何かを作る」ことをできる人はどれくらいいるのでしょうか。
(ウチは3ヶ月でしたが、半年、一年、二年と続いている方のお話も聞きます。そのご苦労を思うとさらに渡辺勘治さんへの尊敬が高まります・・・)
ただ渡辺勘治さんが息子と分かりあえなかったように、家族だから知らないこともあるのかもしれないと、この作品を見ながら思いました。
わたしの父親のお通夜で夜遅い時間にやってきた学生らしき男の子が、父の祭壇の前でただ静かに泣き続けていた姿を、久々に思い出しました。
1人の人が生きるということは、ほんの少しかもしれないけれど、誰かに何らかの影響を与えるということかもしれないなと、感じた作品でもありました。

そして、小説を読んだ今、映画もこのミュージカルもいい意味で、少しばかりファンタジーを含んでいると思うのです。そのファンタジーが希望を産み、いつの時代も見ている人に何かを与えることのできるものになりうる気がします。