こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

映画版「キャバレー」

舞台版のキャバレーの感想は観劇ごとに書いているのに、映画版の感想は一度も書いたことないことに気づく。
ということで、好きな映画と聞かれると悉く答えている映画版「キャバレー」の感想。

私とミュージカル「キャバレー」との最初の出会いはこの映画版の方。
初めて見た時の衝撃ったらなかった。
偉大なる振付家ボブ・フォッシーが監督したこの作品は、
今でも上手く言えないのだけど、一言で言うと壮絶に色っぽい映画、だと思う。
映像、音楽、振付、そして登場人物、その全てが色っぽい。

この作品は、第二次世界大戦前、ナチスと恐慌政治の足音が段々と現実に聞こえてくる時代を舞台にしている。
もちろん、舞台が先にあって、映画はボブ・フォッシーのかなりの脚色版なので、同じ音楽と似たような主人公を扱った別物、くらいには違う。
ボブ・フォッシーの映画版があまりに洗練されていて、なかなか舞台版を好きになれなかったくらい、私はこの映画版が好きである。
一つにはなんといってもやっぱり、主人公サリー・ボウルズの魅力の違いだろう。
舞台版は「自分の生き方」というものには絶対の指針があるけれど、言動は軽い今時の女性的であるのに対して、映画版のサリーは、ライザ・ミネリの圧倒的な個性もあって、独特の存在感を放っている。大胆で繊細。強くて弱い。優しくて傍若無人。そういういくつもの糸がサリーという一人の人間を織り上げていて、舞台版の一つのステロタイプな女性像よりも、よりサリーが人間らしいのだ。
サリーが堕胎した後にその相手の男性に語るセリフがあって、それが、映画版の方が私はサリーがどうしても夢を諦めきれなかった、そういう部分がとても伝わってきて、さらにそれがとっても共感できて、サリー・ボウルズという女性を描く点では、映画版の方がやっぱり上だな、と思わずにはいられない。

多分、舞台版からすると映画版の一番の欠点は、老いた男女の恋愛を一切描かないことだと思う。
今この年になって、独身で生きているから、ずっと一人で生きて年を取ってきた女の恋とその結論は、段々しみじみ感じるからこそ、そういう彼女の心情を歌った珠玉のナンバーが映画版から外れていることは勿体ないとは思う。
けれども、勿体ないくらいにしているからこそ、この映画版が秀作として残っているのだろう。

逆に舞台版の個人的な一番の欠点は、ミュージカルとして、本当に終わりが後味が悪い、ことだと思う。悲劇的なミュージカルはたくさんあるのだけど、この作品ほど後味の悪いものはちょっとない。そこを映画版は、若い男女の一つの恋愛の終わり、のような描き方をしていて、ナチスのことはイメージ映像を差し込むだけで、あまり直接的な表現は殆どせず、時代が回っていることを指し示す。このセンスが堪らない。
そして、もう一つ、映像ならではの美学というか、日本版では表現しにくいところが、この映画版では、ドイツ民族を称える歌を、若く金髪碧眼の美しい、いかにもナチスが愛したような青年に歌わせている点である。それ以上にナチスを説明する必要はないところが映像の強みだったし、またこのヴィジュアルが、猥雑なキャバレーと享楽的なサリーとブライアンの生活と対比するように、緑の牧場、自然の中に清潔そうな青年を映しており、本当に美しいのだ。

もちろん、猥雑なキャバレーのシーンはものすごい色気を放って別の意味で美しい。むせかえるような埃っぽさと安物の香水とアルコール臭が漂ってきそうな、そういう色気。そういう香りの漂う名作。
フォッシーの振り付けとあの音楽が嫌いじゃなければ、ぜひ一度見てほしい素晴らしく魅力的な映画である。