こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

エジンバラの夏 出発

※この記事は事実を元にしたフィクションです。
※気分によって、加筆訂正していく予定です。

8月の最初の日、列車はキングス・クロス駅を出発した。
ハリー・ポッターで一躍有名になったあの駅だ。当時はあちこち工事中で、つぎはぎだらけだった。
それなりに早朝だった。
そして、出発したとき、空は青かったかもしれない。
過度の緊張とわけの分からない期待を乗せて、列車は出発した。向かうはエジンバラ・ウィンブリー駅だ。私たちは年に一度の夏の祭典「エジンバラ・フリンジ・フェスティバル」に参加するために、ロンドンから早朝の列車に乗り込んでいた。

私は見知らぬ人と隣で、ポツンと座っていた。
演出家のヴィクトールは奥さんと一緒に見えないところに座っているらしい。後方からは偶然隣同士の席になったコソボのバニとノルウェー人のハニーGが愉快気に話しているのが聞こえる。すぐ後ろの席には照明と音楽担当のデイヴィがユダヤ系イギリス人のジェニーと父親と娘のように仲良く過ごしている。
斜め向かいにコールがいた。

彼はTシャツとジーンズにロングコートを着て、小道具のバイオリンケースを片手に現れた。まるで本物のミュージシャンみたいだった。
今回のカンパニーの半分がこの列車でエジンバラに向かっていたけど、残念ながらヴィクトールを除いてみんな、私にとってはストレンジャーだったから、誰とも話さないでいられるこの席割りは本当言うと、ちょっと期待はずれで、でも、ほっとできるものだったのだ。
でも、彼らにとっては私の方がストレンジャーだったに違いない。
突然現れた英語もロクに話せない日本人の女。
対面的に親切に取り繕っていても、どうしたらいいのか分からない存在。それが私だ。そのことを特に感じたのが、コールだった。
だから、3週間ロンドンで一緒に稽古をしたけれど、彼と交わした言葉と言えば、最初の挨拶と前夜祭変わりの打ち上げで、「そのうちの一本のペンを貸してもらっても構わないかな?」と聞かれたことだけだった(彼はこういうバカ丁寧な話し方をする人だった)。そして、私が彼に発した言葉も「コール、キトロバ夫人があなたを呼んでいます」だけだった。
彼と一緒の列車だったことは、多少気詰まりで、でも、ドキドキした。
だって、私は彼を初めてみたとき、ああ私の理想が服を着て歩いている、と思ったからだ。亜麻色のロングヘア。水色の瞳。外国を舞台にした少女漫画で育ってきた私にとっての、憧れの王子様実写版みたいな存在だったからだ。

風景はどんどん緑に変化していった。
青かった空は段々灰色の雲が支配し、そして、また青くなり、灰色になった。
点々としていた羊や牛が現れては消えて、そのうち日本海のような荒々しい海辺の景色が訪れた。スコットランドに近づいているらしい。
徐々に現実が私の中に押し寄せてくる。

ジェニーとデイヴィが何かに笑い転げている。
振り返ると話し込むバニとハニーGの姿が目に入る。
前ではコールの亜麻色の髪が席の間で時折揺れる。

私は落ち着かなげに、携帯で音楽を聴いていたけど、正直全く耳に入っていなかった。全く想像のつかないこれから1ヶ月のエジンバラの生活。彼らとともに過ごす時間。それはあまりにも見えなくて不安だった。