こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

あの時の気持ち。

「えー、結局何だったの?」
TABOOの映画が終わって、劇場から出て行く途中、前を歩いていた女の子が言った。内心、全くその通りだね、と頷いてしまった。
でも。
全て意味の通るものじゃないといけないのだろうか。この作品は本当に様々な酷評にさらされたのだけど、NYで最も多かった意見は「物語が散漫で、どこにフォーカスしていいかわからない」というものだった。NY版は今回映像になっているロンドン版とは全く違うストーリーなのだけど、NY版以上にロンドン版は物語が散漫である。だから、前を歩いていた女の子の感想は、全くもって正しい。物語が散漫というか、物語がない。けれど、80年代、イギリスが不景気で暗かった時代に、世間からはじかれた人たちが、楽しんだり、悩んだり、落ち込んだり、有頂天になったりしながら生きていたその様子を、抜群の音楽で彩るミュージカルである。その中で、何を受け取るか、そして、受け取ることが出来ないか、でこの作品は変わっていくのだと思う。NYではたった100日でクローズ。ロンドンではもう少しもったが、ハーフプライスチケットはオープン早々に出回った。それでも、3回目を見るためにレスタースクエアのTKTSに行ったら、窓口のお兄さんに「すっごくいい芝居だったよ!劇場が小さいから、この席でも十分だよ!昨日見てきたんだ」と熱く語られ「うん、そうだね、私ももう見たの」と言ったら「え、何回目?」と聞かれ「3回目」と答えたら、すごくびっくりされて、でも彼も「もう一回絶対見に行くよ!」と熱く言ってくれたり、NYで千秋楽のチケットを引き換えてたら、マチネを見た人が出てきて、「千秋楽のチケット持ってるの?いいわね〜。素晴らしい作品よ、楽しんで」と言われたり、受け取れる人には、作品以上に受け取れるものがあるのだと思う。
この作品を初めて見たのが4年前(4年前当時の感想はこちら)。その4年間で、私は内面的にも状況的にも怒涛の変化があった。父親と反発し、「safe in a city」と歌って、家出をするビリーに、そして夫から自立し、新しい世界をつかむジョジイに爽快感を覚えたことを、懐かしく思い出しながら、これ以上家にいたら、私の精神がまいってしまう、と思わせた相手がもういなくなったことを感じ、時の流れを思う。同じように「You always knew,didn't you mother?I was a stranger in this world」に共感した気持ちも、現在では少し薄らいできた。そして、歌詞の全てが私の歌だと思った「prettylies」でさえ、あの頃にあったキムのような繊細さやもろさはもうなくなって、随分たくましくなったものだとも思う。それでも、ビリーの中に、ジョージの中に、そしてキムの中に、かつての自分と今の自分を見い出す、こんなミュージカルはやっぱり他にはない、私の「ただ一本」なのだと痛感した。
ただ、気になった部分も少々。ロンドンが舞台のこの作品。ロンドンの固有名詞(マークス&スペンサー、ウェイトローズ、コロネーション・ストリートなどなど)もバンバン飛び出すが、字幕ではその説明がないのが、日本人が見るにはちょっと難しさがあるかな、と思った。それから、フィリップが客席に話し掛ける時「Are you posh?」という部分があるのだけど、そこが「あなた、エレガント?」という訳になっていて、なんだかニュアンスが違うような気がして、気になった。さらにビッグ・スーの説明がなされないので、彼女が歌う「Il Adore」の訳がまるでビッグ・スーがリーの母親のようで(まあ、精神的にはそうなのだけど)見ている側としては誤解を生むかな、と。
安心したことも。何より、今まで字幕がない状態で見ていて、もちろんセリフが聞き取れるところが私の英語力では限られているので、本当は全然違う話だったらどうしようかと冷や冷やだったのだけど、ビリーの父親が失業中だったという認識がなかった以外は正解でほっとした。
注目点のボーイ・ジョージの一人称は「私」、そして、全体にオネエ言葉で訳されていたのも個人的にはツボだった。別にオネエ言葉にしなくてもいいかな、とは思ったけど。

23日と25日はそれぞれクリスマス・パーティー。久々にクリスマスを満喫した休日となった。