こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

RENT

12月16日(日)18:00~ 東京国際フォーラム ホールC
ロジャー ヘインツ・ウィンクラー
マーク ジェド・レスニック
エンジェル クリステン・グリフィス
ミミ ジェン・タルトン
モーリーン クリスティーヌ・アドワイヤー
ジョアンヌ オニ・ワチャック
ベニー ジョン・ワトソン

観客の熱狂も役者の熱意も全てが、映画化というムーブメントによって、かみ合わず空回りした昨年の公演があって、私の中のRENTブームは正直完全に去っていってしまっていた。10年近い年月を経て、ここが一つの卒業なのかな、という思いさえあった。だから、今年の来日公演は、個人的に全く気持ちも盛り上がらず、分かりきった舞台を見る意欲もあまりなく、惰性に近い感覚で見に行ったのだ。

でも、見に行って良かった。去年は本当に舞台が空回りしていたから、あんなに冷めた気持ちになったのだということを再確認させてくれたいい舞台だった。ウイルスような変に熱狂したおかしな空気だった去年を思うと、真摯に静かな愛情にも似た熱意が観客にあって、それに呼応するかのように、キャストが未熟ながらも、持てる力を尽くして熱のこもったパフォーマンスを見せてくれて、だから、そこに、かつて私が愛していたRENTという作品が戻ってきたのだと思う。久々に、RENTを見た、という気になったし、かつてこの作品を必死に追いかけていた頃のことを走馬灯のように思い出させてくれた。

勿論、RENTは多いに普遍のテーマがあって、だからこそ、今日までも熱く支持され、生き残った来た作品ではあるけれども、私にとってRENTは世紀末ありき、なのである。だから、世紀末を終えて、更に自分自身も年を取った今、自分にとっての完璧なRENTというものは有り得ない。エイズ・クライシスだった、1980年後半から1990年初頭のニューヨークは未知の世界ではあったけれども、私が最初にRENTを見た1998年というのは、エイズ・クライシスのアメリカにどこか共通するような、今思えば暗い時代を引きずっていたと思う。高校、大学の頃の私たちを取り巻くニュースと言えば、バブル崩壊、リストラ、そうこうしている間に1995年に連続して、阪神大震災地下鉄サリン事件、そして、年々凍える就職率。世紀末であるということの、なんとなくの不安感。そんなのがいわゆる青春時代を取り巻いていたからこそ、刹那的に生きる若者に、でも、まだ何か出来るんじゃないだろうかともがく若者に、エイズとか国の問題を越えて、共感出来たのだと思う。

トニー、そしてピューリッツア賞も取ったミュージカルとして、話題だったこの作品だったけれども、それ以上の知識を持たず、とにかく見てみたいと出会ったのが1998年の秋、ロンドン。今から思えば、ブロードウェイからのオリジナルキャストが降りてすぐの、ロンドン・オリジナルキャスト版を見ていたわけである。恐らく熱狂的であっただろう本場のオリジナルキャストの後だから、きっとロンドン的にも、凄く優れたキャストを用意していたのだと思う。とにかく、話なんか全く分からなかったけれども、圧倒的な歌唱力のシャワーにただただ衝撃を受けたのを昨日のことのように思い出す。

そして、帰国してすぐ、日本版RENTの初演。そこでようやく、二度目の衝撃を受けるわけである。つまり、初めて見る、性的なものを多いに含んだ内容や歌詞の登場。ドラァグ・クイーンは今までにもあったけれども、レズビアンが登場する芝居を見るのは始めてだった。そして、観客に向かって、お尻を出してしまうという演出。更に、通常日本版をすると大きな違和感である向こうの人用の衣装の似合わなさがない、ジーンズに長Tシャツ、マフラーにボロボロのコートといった、普通の若者ファッションが舞台に乗っている不思議。そして、携帯電話、ポケベル(1998年当時は段々携帯に移行していた時期ではあったけれどもポケベルもまだ現役だった)の登場。つまり、当時の自分たちの生活そのものが、舞台の上にあって、その違和感と衝撃といったら、今考えても他の追随を許さないものがあったと思う。

だからこそ、世紀末にこの作品と共存できた自分の幸福を久々に思い出させてくれた、そして、その時代の自分を思い出させてくれた、いい公演だった。久々に、ジョナサン・ラーソンありがとう、と呟きたくなる、そんな公演だった。