こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

アラフォー負け犬がビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

宝塚星組「ロミオとジュリエット」

7/19(月)16:30~ 梅田芸術劇場

ロミオ 柚希礼音
ジュリエット 夢咲ねね
ティボルト 凰稀かなめ
キャピュレット卿 一樹千尋
ロレンス神父 英真なおき
モンタギュー卿 にしき愛
ベンヴォーリオ 涼紫央
ピーター 美城れん
モンタギュー夫人 花愛瑞穂
キャピュレット夫人 音花ゆり
ヴェローナ大公 水輝涼
マーキューシオ 紅ゆずる
乳母 白華れみ
パリス 天寿光希
死 真風涼帆
愛 礼真琴

作/ジェラール・プレスギュルヴィック
潤色・演出/小池修一郎

フランスミュージカルの初めての日本版上演ということで話題のこの作品。
私の中でフランスミュージカルと言えば、個人的に音楽にはそれほど心動かされはしないのだけど、前衛的なセットと衣装と照明、そして何よりダンスシーンにいつも衝撃を受ける。
だから、そういう意味で、振付が日本版ということで、日本の振付家に変更になったのはとても残念だった。悪くはないが、特に衝撃や感動は振付からは得られなかった。

そんな残念な点はあったものの、それでもこの作品の魅力が十二分に伝わる良い舞台だったと思う。
原作はシェイクスピアのあまりに有名な物語。だから、昔の宝塚歌劇の作品も、さらにディカプリオの映画も見たし、原作も読んだ。それでも、改めて今回の舞台に感動したのは、それらの経験が全て20歳頃に済ませていて、大人になって初めて、この作品に触れたのもあるだろう。

青春の疾走。若さの輝き。迸る情熱。
全てがキラキラと輝いてあまりにも眩しく、彼らがあまりに若く未熟で危うくて、美しい。
この有名な物語で「美しくあること」と言うのは恐らく最も重要で、だから、宝塚歌劇で上演する意味はあったと思うし、小池修一郎が実に上手く、宝塚歌劇的美を表現していた。
何百年も前に作られたイタリアのとある街の架空の物語。
けれども、横暴で勝手な大人と、その大人たちが生み出した未熟で切れやすい若者が蠢く街は、今もなおリアリティを持ってそこにある。
だからこそなおのこと、大人になった今、未熟な子供たちが愛おしく、彼らを守るために何をすればいいのか、ということを考えてしまって、妙に心揺り動かされた。
大人になって見る「ロミオとジュリエット」はアリ、だと思う。

輸入作品における小池修一郎の演出には、一切の心配をしていない。
今回も素晴らしい日本版への転換だった。
どのシーンも美しく、無駄がない。
また、キャラクターの設定も出演者の個性に合わせた見事な演出だった。
問題があるとすれば、数人を除いて多くが歌唱力が伴わなかったことだろう。

その中で、主役ロミオの柚希礼音の輝きは素晴らしかった。ロミオのまっすぐさを余すところなく表現。得意のダンスに加えて歌唱力も申し分なし。とりわけ「僕は怖い」の歌は、リズム感や表現力も素晴らしく、かつて自分自身が若かった頃、意味もなく死への恐怖を持っていたあの感覚を思い出させ、共感した。何より、若者の透明感を表現しきったのは驚いた。
一方相手役のジュリエット夢咲ねねは、このような難しい曲の中で、歌唱力の未熟さを露呈してしまう結果となった。けれども、彼女のヴィジュアル力は半端なく、あらゆるシーンが切り取られた絵のように美しい。まごうことなき16歳の乙女。ぴかぴかの美少女。ロミオもティボルトも乳母も彼女を愛し慈しむのが良く分かる。だから、悲劇が際立つのだ。歌唱力を捨ててでも、彼女がジュリエットを演じる意味は多いにあったと思う。

とにかく、キラキラと本当に美しい舞台だった。
美しいことは、強い。
彼らがあまりに美しく眩しくて、だから、涙した、そういう舞台だった。