セルバンテス/ドン・キホーテ:松本幸四郎
アルドンザ:霧矢大夢
サンチョ・パンサ:駒田 一
アントニア:ラフルアー宮澤エマ
長年、ぼちぼちとミュージカルファンをやっていると「名作」といわれる作品は
なんか、見とかなきゃ。
という強迫観念におそわれるのはなんでなんでしょう。
とりあえず「ラ・マンチャの男」も、
見なきゃいけない、
と思い続けていた作品の1つでした。
昨年、アルドンザ役を霧矢大夢という好きな役者がやるということで
これは、この機会に見ておけ、という
神のお告げだな、
と思って見に行きました。
はい、言い訳です。見たかったんです。
ご存知のように、「ラ・マンチャの男」は
セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』を原作としております。
もちろん、私は、原作に手を出したことはございません!(←堂々ということではない)
だって、なんか難しそうだもん。
でも、ラ・マンチャ地方は訪れたことがあるんですよね。
ドン・キホーテが巨人と思い込んでたたかった風車も見ました。
マドリードのスペイン広場で「ドン・キホーテとサンチョ・パンサ」の像も見ました。
(↑敢えての後ろ姿 笑)
ただなんの感慨もなく見たのでもったいないなあと思って昔より「ラ・マンチャの男」に興味があったのは確かです。
しかしですね、こんな作品だとは思いませんでした。
自分を中世の騎士だと思い込んで、
風車を巨人と思い込んで戦った
てエピソードしか知らなかったので、
てっきり「狂人の行動」を笑う物語、
だと思い込んでいたのです。
でも、違いました。
もちろん、ドン・キホーテは狂人です。
家族に迷惑がられ、かかわる人々からは、笑われたり、憐れまれたりします。
さらに、ドン・キホーテがどうして狂人になったのか、その理由は語られません。
ただ、ドン・キホーテは「アロンソ・キハーナ」という本当の自分より「ドン・キホーテ」でいる方が「幸せ」なのです。
だから、アルドンザにも観客にも、「何か」を投げかけるのです。
もう何度も再演されている名作ので、
今さら私が説明するまでもないですが、
この舞台は二重構造でつくられています。
投獄されたセルバンテスが、
囚人たちと自作の「ドン・キホーテ」を演じるのです。
舞台の上の方に扉があらわれて、長い階段が下へ伸びてくる。
降ろされていくセルバンテスと、下で待ち受ける囚人たち。
まるで、地獄におちたように感じさせるセットです。
ロバで駆ける音は「附け打ち」で表現。
歌舞伎の手法が効果的に使われていて、
演出家「松本幸四郎」のエッセンスが発揮されています。
素晴らしいです。
ただ役者「松本幸四郎」は、セリフが聞き取りづらかったのが残念です。
これは年齢のせいでしょう。
私が、もっと早くこの作品をみるべきでした。
でもその他のキャストは、素晴らしかった。
そして、霧矢大夢のアルドンザが魅力を放ちまくっていました。
ドン・キホーテが城だと思って滞在した場所、
そこで、ドン・キホーテはアルドンザと出会います。
本当は単なる安宿なんですけど、
ドン・キホーテにとっては「城」なので、
そこにいるアルドンザを「お姫さま」だと思うわけです。
えーと、ヨーロッパの「騎士道」そのものがよくわからないので、なんで「騎士」には「忠誠を尽くす姫」が必要なのかわかりませんが、それはそういうことらしいので、素直に受けとめます。
そして、ドン・キホーテはアルドンザを「ドルシネア姫」だと崇拝するのです。
でもアルドンザは安宿の下働き兼売春婦。
自分を姫として崇拝するドン・キホーテを、かたくなにはねつけます。
私はお姫さまなんかじゃないと。
この霧矢大夢がいいんです。
荒くれ女感、ハンパないです。
さすが、岸和田の血!(←誉めています)
でも、姫だ、姫だと敬愛されると、女として悪い気はしません。
少しずつドン・キホーテに心動かされるアルドンザ。
でも、その直後に現実を身をもって知らしめられます。
ここが見ながら、辛くて悔しくて哀しくて!
でも、これが現実であることを受けとめないと、
アルドンザはここで生きていけないんです。
だから、それでもしつこく「ドルシネア姫」と敬愛してくるドン・キホーテを拒否せずにはいられないのです。
だからこそ、ラストシーンのセリフがゾクゾクします。
微笑むアルドンザを見ながら、私は
アルドンザは現実を受けとめることをやめたのだ
と思いました。
「幸せ」な世界に行くことを選んだのだと。
そんなアルドンザにピンスポットがあたって、
ゆっくりと舞台は暗くなっていきます。
暗くなる舞台とアルドンザの表情を見ながら、
何を思うのかは人それぞれでしょう。
そこも、「ドン・キホーテ」を名作にしている要因かもしれないなあ、なんて思いました。