こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

シシィとトートの裏表@エリザベート

新演出版「エリザベート」のポスターを眺めながら、改めて、アサコ(瀬奈じゅん)シシィ&城田(優)トートのあのシーンが好きだったなあ、というのを思い出しました。

シシィがフランツィに最後通告を突きつけた後のシーン。
よく考えたら、星組版もここが好きなのです。
MASTERPIECE COLLECTION【リマスターBlu-ray版】『エリザベート-愛と死の輪舞-』('96年星組)
麻路さき,白城あやか,稔幸,紫吹淳,絵麻緒ゆう
宝塚クリエイティブアーツ

というのも、(白城)あやかシシィもアサコシシィも強くてワガママではあるけれども、どちらも普通の人間というか、自分を通すためにフランツィを傷つけることで、また自分も傷つく、というのが見えるから。

逆にハナちゃん(花總まり)初演雪組版のシシィなんかは、人を傷つけることを全く厭わない感じ。
彼女の殿上人的資質がこのあたりにガツンと出ていました。
さらにカナメ(涼風真世)シシィは傷つけている、という意識もないイメージ。
価値観も物の見え方もまるで違う。カナメシシィとフランツィは丸きり、どこも触れあうところがないのです。
(だから「夜のボード」はカナメちゃんが一番好きでした。あまりにも本当にたどり着くところが違ったから)
ハナちゃんとカナメちゃんのシシィの共通のイメージとして「怒り」がある気がします。
思い通りならないことに対する自分とゾフィーとフランツィに対する怒り。
ハナちゃんに対する一路(真輝)トートは、運命の支配者、本当に黄泉の帝王で、シシィをそう操ることでハプスブルク家の運命の回している、という感じでそれはそれでしっくり見ました。
ストーカー的武田(真治)トートは、カナメシシィが人生が思い通りに行かず怒っているところに、タイミング悪くやってきてしまって、 怒られてしゅんとなる感じで、それはそれで面白かったのです。

でもやっぱり、あやかシシィやアサコシシィとそれぞれのトートが好きなんです。
あやかシシィの裏にいる、傲慢で気ままで、でもどこか包容力もある麻路さきトートは、シシィがこうありたい顔に見えました。
アサコシシィの裏にいたのは、本当は心細くて、繊細で可愛いトート。(そして死ぬほど美しかった!個人的に歴代トート一位の美貌は城田優くんです)

フランツィを拒絶するシシィ。
自分が誰よりも強くあるために選択し、実行したことだけれど、痛みがないわけじゃない。
それでもこれは正しかったのだと、私と息子のためにすべきことだったのだと、フランツィのことなんか考えるなと、マイナスの感情を押しやろうとしているところにトートがやってくるのです
普通に生きている日々で、ちょっと心が折れることがあって、「あ、このまま死んじゃったらラクかな」と考えることは多くの人にあることだと思います、多分。少なくとも私はあるのです。
それが「トート」というカタチでやってくる。
けれども、「まだ諦めるには早い」とそのマイナスの考えを振り払うところが、実にリアルに感じました。
ときどき自分自身が日々の生活の中で行っていること、それがそのまま舞台に現れた快感と共感、みたいなものがこのシーンにはあるのです。

その「トート」が魅力的であれば魅力的であるほど、それをはねつけるパワーは強くなる。
それほど魅力的なものを振り払うときの「強さ」や「生命力」。
それが私のエリザベート像です。
ルドルフが自殺してもまだ死ねない。
似た者同士だとお互いに感じていた、いとこのルートヴィヒ2世が精神を摩耗していって、自死したかもしれなくても、シシィは同じようにはならない。
自分では死ねない。
エリザベートはそういう「普通のどこにでもいる女性」だとわたしは思っています。美貌は別として(笑)

けれど「狂気と正気のふちをギリギリで歩いている女性」とみる方もいるし、カナメちゃんのようにまるで「自分だけの世界を生きている人」と演じることだってできる、そこがこの作品の面白さの1つなのかもしれません。