自分の得意分野ってなんだろう、と考えていたとき、ふと、これもそうじゃないかなと思いました。
ヴィッテルスバッハ家。
ま、宝塚ファンの多くが洗脳されるので、宝塚ファン的には珍しくないんですけどね。
なぜなら、関連の作品がたっくさん上演されるから。
でも、まあ、二回もノイシュバンシュタインまで行くくらいはまったので、まあ、得意分野にいれてもいいかなあ、と。
ということで、昔、加藤知子「天上の愛 地上の恋」
を読んだときの感想が出てきたので、アップしてみました。
5巻までは今度こそちゃんと世界情勢を把握しようとゆっくり読んでいたのだが、6巻からはそんな余裕もなく、あの結末にどういう経路を辿っていくのか気になって気になって止められなかった。で、読み終わってみて、言葉が私の中でとぐろを巻いてどうしようもないので、書いてみる。
オーストリア皇太子ルドルフが主人公のこの話。私の中でのルドルフ像とはかなり違う。
「うたかたの恋」「恋人たちの肖像」という宝塚作品も見て、ミュージカル「ルドルフ~ザ・ラスト・キス~ 」、「うたかたの恋」の映画も見て、その他エリザベートやルートヴィッヒ二世に関連する本も何冊か読んではいたものの(実は卒論をルートヴィヒ二世を題材に創作にしようと当時は思っていたので、この手の資料本は結構手元にあって、最終巻でこのマンガの参考文献に並んでいる本と若干被っていて嬉しかったりも)、
私の中のルドルフのイメージは何故かウィーンミュージカル「エリザベート」の中のルドルフである。
昔「エリザベートファンに100の質問」の中で、「61 大きいルドルフ殿下をなぐさめるとしたら何と言いますか?」というのがあったのだけど、
私はそれに「人生妥協も大事です。急がば回れ。いずれ、あなたの時代がきたはず。」と答えた。
若くて、正しいと信じたことに絶対の自信があって、だからこそ止められなくて、父親と時代に衝突し、自ら命をたった、そういう風に私はルドルフを捉えている。
もう少し待つことができたなら、彼は良き王となり、自ら王制を廃止出来たのに、若さが彼を焦らせ、死に至らせたのだと、そう思っている。
でもこの「天上の愛 地上の恋」のルドルフは幼い頃からやたらと切れ者に描いているので、どうやって心中に辿りつくのだろうと思っていたら、こんなところでヴィッテルスバッハの血筋が飛び出してきて、
ああ~なるほど~そういう解釈もあるか~
と一人怪しく唸ってしまった。
マンガの中には、ルドルフと惹かれあう架空の人物が登場するのだけど、その人物との関係を見ているとどうにも哀しくなってくる。
この人物にしろ、ミッツィにしろ、ルドルフの聡明さがどうしてもこういう人たちを必要としてしまうのだろうし、こういう人たちだからこそ、ルドルフの苦悩を思いやることもできるのだろうけれど、それでも、私は、彼にはいみじくも一緒に心中した「うたかたの恋」で描かれているようなマリー・ヴェツェラのような人間が本当のところ必要ではなかったのだろうかと思わずにはいられなかった。
架空の人物は「ルドルフと同じ高さでものが見えるために」と勉学に励み、そのことが結局のところ、ルドルフと同じものを見えなくさせているのだが、そのことに気づかない。
そして、ルドルフには、何も知らず、ただルドルフを心から慕い、無上の愛ですきまを埋めてくれるような相手が、その孤独を癒すためには必要だったと感じてしまった。
そう思うと人間関係って本当に難しい。
ところで、時々、自分の中で渦巻いている言葉を整理した言葉にぶつかる。そういう言葉を見るたびに自分の中の言語化力のなさを痛感し、羨望してしまう。
今回のマンガにもそういう言葉があった。
物事をはかるのに正しさを求めても無駄なことだ。
人は皆それぞれの立場や理屈の中で正しいのだ。
支配者には支配者の苦しみが
支配されるものには支配される者の苦しみがある。
知りたくないのなら目をつぶれ。
けれど知りたいと思うのなら
その目で見るものを否定するな。
その心で感じたものから目をそらすな。
「正しさ」はお前の中にだけある。
私が正しいと思うものをきっちりと理解する努力を、そして何より自分の正しさを他人に押し付けないように気をつけて生きたいと痛感する言葉だった。
もちろん、目をつぶる権利も忘れずに。
天上の愛地上の恋 第1巻 (花とゆめCOMICS) | |
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