こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

平和を考える場所に立つ@広島市原爆死没者慰霊・平和祈念式(平和記念式典)

子どものころ習ったことで今に影響を及ぼしているものというのは個人差があることだと思います。
私が毎年8月6日8:15に黙祷をする、というのは間違いなく小学校の頃の教育の影響なのですが、同じ教育を受けていても、そんな記憶すらない人もいるかもしれません。
なぜか私の学年の先生たちは反戦教育に熱心で、8月6日は夏休み唯一の登校日でした。
そして戦争のころの市民の生活を追体験する、ということをやっていました。
また美術の授業で丸木夫妻の「原爆の図」の模写をしたことも、私には忘れられない体験でした。

そんなことが頭のどこかにこびりついていたのでしょう。
いつからか私は自主的に8:15に黙祷をしはじめました。
もちろん、仕事が忙しくできない朝もありました。
ロンドンにいて、時差に合わせて夜中にしたこともありました。
することによってどうだということはないのですが、普段のほほんと暮らしているので、この1分間くらい、戦争とか平和とか原爆とか核兵器についてちょっと考えるのはまあ悪くないんじゃないの、くらいのものです。
けれど、一度、広島でこの目で祈念式を見たいなという気持ちをずっと持っていたのです。

今年は8月6日が日曜日にあたることに気付いてから、今年こそはと思い、ようやく重い腰をあげて現地に赴きました。

幸運なことに叔父が広島に住んでいたので、前日は叔父に美味しい料理を食べさせてもらって、当日は平和記念公園の近くまで車で送り迎えしてもらうという、なんとも申し訳なくも贅沢な立ち合いになったのですが、それでもその場にいないと感じられないものがありました。

叔父は広島市出身のお相手と結婚をしていて、今は叔母とそのお母さまと同居しています。
普段は法事や正月にしか顔を合わせないので、今回訪れたことによりはじめて、お母さまも被爆者であったことを叔母から教えてもらいました。
爆心地より6キロくらいのところに叔母のお母さまはおられたそうです。
そのため当時の規約では「被爆者」にはならず、原爆手帳もお持ちではないそうです。
その後いろいろと変わったので、原爆手帳を取得しようとすればできただろうけれどされなかったそうです。
そこにはきっとさまざまな理由があったのだと思います。
叔母のお母さまに直接お話しを聞くことはできなかったのですが、少しだけお目にかかることができました。
叔父の結婚式以来のことで、私の記憶的には「初対面」です。
それも、今回赴いて良かったことの一つでした。

広島市内で育った叔母は合唱部だったため、毎年8月6日は式典で「広島平和の歌」を歌っていたそうです。
社会人になってからは式典の中継はほぼ黙祷までしか見なくなってしまったので、そんな歌があったこともはじめて知りました。

さて、当日の朝、先に述べたように7時45分くらに平和記念公園の近くまで送ってもらい、そこから公園まで5分程歩きました。
交通規制がかかっているため、車は許可のあるものしか入れません。
大通りをたくさんの人が公園に向かって歩いていました。

その道々、いろいろな紙が配られていました。
核兵器について追及するもの、今の政権にむけて発信されたもの、宗教的なもの、いろいろありました。
こんなことが行われているのもテレビでは知り得なかった事実です。

そして、7時50分に公園に到着すると、当たり前だけどすごい人。
参列者はもうすでに着席していました。
私たちはその参列者の後ろで立って見るかたちになります。
こんなくらいの見え方です。

参列者以外の人々の格好はさまざまでした。でも全体的にはラフな服装でした。
献花用でしょうか、花を手にしている方も多く見られました。
ああ、私も花を持って来ればよかったなと反省。
そして、欧米の方らしき人々から韓国の方と思われる親子まで、多く外国の方も見られました。
参列者には翻訳イヤホンガイドや英語の翻訳もついたパンフレットが配布されているようでしたが、立って見ている人たちには何もありません。
式典の前にざっとどういう内容があるかを英語で案内されただけでした。
せめて、一つ一つの行事の間に英語の案内があるといいのにとは思いました。

そんな式典の案内が流れたあと、「献水」が行われました。
式典の前に、炎の中で水を求めながら亡くなられた方々に捧げる行事だそうです。
その説明を聞くだけで、丸木夫妻の絵が頭の中に蘇りました。
水を求めて川に連なった人々。
すでにその重みにうっとなったまま、式典がはじまりました。

72年前、という言葉が繰り返されるたびに、当時10歳でももう82歳なのかと、当時を体験された方が少なくなっている現実をひしひしと感じます。
そんなことや、水を求めて亡くなれた人々のことやいろいろな感情がごちゃまぜになって、実際に聴く8時15分の黙祷の鐘はひどく重く響きました。

ところで、式典がはじまる少し前から、遠くで人の声らしきものが聞こえていたのですが、それがだんだんと近づいてきて、ああデモの声だなと気づいた頃、総理大臣の式辞になり、それが一層大きくなりました。
総理大臣への抗議の言葉がはっきりと聞き取れました。
これもその場にいなければ知り得なかったことだったと思います。

国連で「核兵器禁止条約」が採択されてはじめての式典ということで、このことに多く触れられましたが、日本が不参加だったことについての直接的な言及はありませんでした。
その国連のグテレス事務総長のメッセージを代理の方が読まれたのですが、その中で「広島の皆様が平和と希望のメッセージを世界に向けて引き続き発信し続けておられることに、心から感謝申し上げます。」という言葉がありました。(全文はこちら
本当に広島はそれを続けていることを、この式典に参加して痛感しました。

はじめて「広島平和の歌」を聞いて、叔父との約束の時間があったので公園を後にしたのですが、公園を出るとすぐに中国新聞の「号外」が配られたことにも驚きました。

こちらは裏面に広島市長の「平和宣言」と広島の子どもたちの「平和への誓い」が英語でも記載されています。

叔父に聞いたところ、毎年8時30分にはこれを公園の外で配るのだそうです。
そこには「使命」みたいなものがあるように思えて、それにも何とも言えない気持ちがこみあげてうっとなりました。

帰宅して、NHKの「原爆死」という番組を見たのですが、これが当日爆死・圧焼死(倒壊した建物に閉じ込められてその後発生した火災によって死に至ること)された方以外の「死」の原因を究明するという内容でした。
原爆がもたらす「死」までの過程を伝えており、こういうことを世界に発信すべきではないだろうかと思いました。
現実に原爆を使用したらどうなるのか。核をもつ国々は特にそういったきちんとした知識を持つべきだと個人的には考えています。
しかしながら、感情を抜いてそれを伝えることの難しさも感じるのです。

明日は長崎の原爆の日です。
実は私は長崎の方が仕事で何度も訪れたことがあるのです。
今度、8月9日が週末にあたることがあれば、ぜひ長崎の式典も見たいと思っています。