3/26(日)17:00~ 森ノ宮ピロティ―ホール
スタッフ
上演脚本・演出 フィリップ・ブリーン
キャスト
コンスタンチン・リョーヴィン 浅香航大
アレクセイ・ヴロンスキー 渡邊圭祐
カテリーナ・シチェルバツカヤ(キティ) 土居志央梨
ダリヤ・オブロンスカヤ(ドリー) 大空ゆうひ
シチェルバツカ侯爵夫人 梅沢昌代
ステパン・オブロンスキー 梶原善
若かりし頃から現在にいたるまで、何度かロシア文学に手を出したものの、全て第1章くらいしか読めず、実家の本棚に眠っています。
それでも舞台やら映画やらを見たことはある作品もあるのに、この何度も色んな人で映画化、ドラマ化、バレエ化、ミュージカル化もされている「アンナ・カレーニナ」には全く触れることなく生きてきました。
そのため今回、知人からのお誘いがあり、これがこの作品にふれるチャンスと乗っかったのですが、乗っかってよかったと心から思う公演でした。
一応「アンナ・カレーニナという人妻が若い男性と恋に落ちる」という最低限の情報は持っていたのですが、あえてそれ以上は何も知らないまま赴きました。
ということで下記の感想は、全てこの公演から感じたものになります。
まず舞台上に敷き詰められたと表現してもいいような小道具の数々に驚きました。
木馬、ドールハウス、陶器、子どもサイズのベッド・・・。
小さなこれらをどうやって使うのだろうと思っていたのですが、見事に普通に馬の見立てとして、普通のベッドとして、そして屋敷の外観として、シーンごとに自然に存在しているのです。
大道具らしい大道具はない中で、この壁がそうだったのですが、
これが照明によって重厚感を醸し出し、19世紀後半のロシアを表現していたように思います。
その中で繰り広げられるのは、ラブロマンスかと思っていたら、なんというか「生きていくために必要なものは何か」という問いだったような気がします。
大前提として、日本人の庶民のわたしにとって勝手な想像はするけれども決してわからない「ロシア貴族社会」がありました。ここはもう本当に想像でしかないのですが、恐らくに家名と家名のバランスを取った婚姻がなされるものでしょうし、その結婚生活の下で女性に許されることは少なかったのだと思います。
今回の芝居では、冒頭からドリーによるその結婚生活の不幸と不満を提示されます。
そしてドリーの夫・オブロンスキーは、ああいう社会では普通なのかもしれないけれど、現代感覚からするとはっきり言って「最低の夫」です。妻をないがしろにして不倫三昧、放蕩三昧。この夫婦の仲裁のためにアンナ・カレーニナはやってくるわけですが、ここで若きイケメン将校ヴロンスキーと出会ってしまうのが、彼女の転落のはじまりでした。
オブロンスキーに比べたら、アンナの夫・カレーニンはちゃんとアンナと家庭を愛している良き夫に見えました。アンナ自身もカレーニンを「夫」としてそれなりに愛していた。それでもアンナはヴロンスキーと恋に落ちてしまう。この辺りで、アンナの過去を考えてしまいました。
恐らく恋も知らず、良き妻・良き母となるよう教育を受け、それだけを人生の目標として育てられたのではないか。でもヴロンスキーと出会い、求愛を受けたことにより、アンナは今まで知らなかった世界に魅せられてしまったのではないか、と思ったのです。
これがドリーの方ならもっと「恋」に納得できたでしょう。
どう見ても今の、現状の彼女の生活が幸せには見えない。
けれどアンナは現状の生活をそれなりに享受しているように見える。
そして母であるという責務と愛を当然のように抱えている。
なのにドリーは「我慢」を選び、アンナは「誘惑」を選んだ。
その二人の対比も大変興味深かったです。
そして選んだ後「女性が一人で生きていく」なんて考えもしなかった上流階級の奥方が、恋だけを頼りにどうやって人生を乗り越えていくか、というのは、かなりの難題であることが見ていても辛かったのです。
アンナが飛び出した世界に適応できず、どんどんと壊れていく一方で、描かれたのがリョーヴィンとキティの結婚と生活でした。
最初ヴロンスキーとちょっとあったけれど、最終的にリョーヴィンに愛され結婚したキティ。アンナと同様に相手の愛情を疑うことはあるけれど、リョーヴィンはキティ一筋で揺るぎなく、キティの存在が彼の領地で生きる意味さえも強くするのです。
そして田舎だろうリョーヴィンの領地で、動じることなく彼の家族を手厚く看護するキティの強さ。
本質的なものか、後天的(リョーヴィンに愛されているという自信)なものか、その辺りも考えずにはいられませんでした。
ただ分かったのは、人は苦しんでいる最中に死を選ぶのではなく、全てを悟り自分を顧みたときに、それを選ぶのだなということでした。
そしてそのアンナの苦しみ、悩み、惑い、悟りを見事に演じた宮沢りえさんの素晴らしさ。タイトルロールを演じるということはこういうことなのだと痛感しました。アンナが分からなくても、観客をアンナに心を寄せさせる、見事なアンナだったと思います。
宮沢りえさんがアンナとして素晴らしかったからこそ、やはりヴロンスキーの足りなさは気になりました。
でも宮沢りえさんより顔小さいのでは?と感じるほどのスタイルの良さと美貌は得難く、また後半どんどん調子を上げていったように見えたので、渡邊圭祐さんには今後ともぜひぜひ舞台へ出演していただきたいと思います。
着こなしがともなっていないのに、あの軍服がちゃんと着られてそれなりに格好良く見える、というのは個人的には貴重!ぜひ衣装の着こなしや動き方なども勉強されて、パワーアップされたころに、再度このヴロンスキー役を見たいと思いました。
一方のカレーニン、小日向さんは優しさと尊大さのバランスが本当に見事でした。
ドリーの大空ゆうひさんは、宝塚時代に一度拝見しただけですが、男役よりもずっと個人的にはステキだったと思いました。男役時代に気になっていた発声や滑舌も無理がなく、男役時代は声質的に無理をされていたのかなと思ったくらいです。
ドリーともわたしは分かり合えないけれど、結局あの生き方を選ぶ彼女の気持ちと人となりは十分に伝わりました。そして思わずドリーに同情させるオブロンスキーの梶原善さん。なんか嫌な奴なのに憎み切れないのが上手い!
そして辛いパートの多いこの作品の中で、強さと希望を見せてくれたキティ・土居志央梨さんのかわいらしさと動きの美しさ。彼女のこれからの活躍も楽しみです。てか、バレエも歌もできるなら、ミュージカル、やりませんか?
浅香航大さんはテレビとの印象が違って一番驚いたかもしれません。でも純朴で温かみのあるリョーヴィン、ステキでした。
音楽と溶け合う演出と、繰り返しになりますがセットも大変ステキだったのですが、
(特にこの電気が表現されるセットが印象的でした!)
1点気になった点がありました。
たしかリョーヴィンとキティの結婚式だったと思うのですが、教会的な空間が上手方向奥に作られていて、そこにキリスト像があったのですよね。
ロシア正教というと像じゃなくイコンが飾られているイメージだったので、驚いたのですが、教会にはキリスト像はあるものなのでしょうか。
そしてアンナやキティを取り巻く貴族社会の噂と閉塞感が、なんとなく英国ドラマの「ブリジャートン家」
を思い出させたので、(ブリジャートン家はいい感じのハーレクインロマンスでエンタメですが)演出家のフィリップ・ブリーン氏の意図か、貴族社会というもの自体がどこの国でも同じ感じなのか、確かめるためにも、原作、読みたい、と思ってしまいました。
しかし今までのロシア文学への挫折感からのためらいが・・・。
しかも長い・・・。
そんなわけで時間ができたら、トム・ストッパードが脚本のこの映画あたりから見てみたいと思います。。。