こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

魂のさすらい@東宝「エリザベート」

1/3(水)12:00~ 梅田芸術劇場

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スタッフ

脚本/歌詞 ミヒャエル・クンツェ
音楽/編曲 シルヴェスター・リーヴァイ
演出/訳詞 小池修一郎    

キャスト

エリザベート 愛希れいか
トート 古川雄大
フランツ・ヨーゼフ 佐藤隆紀
ルドルフ 甲斐翔真
ゾフィー 涼風真世
ルキー二 上山竜治

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知らぬ間に「チケットが非常に取りにくい演目」の一つになっていた「エリザベート」。

わたしが最後に見たのは宝塚月組版でした。

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この時も実はもう一度見る予定だったのですが、台風で公演が中止になり、その後の東宝版もコロナで中止になり、「ちゃぴ(愛希れいかさん)のシシィに嫌われているのか・・・(涙)」となっていたので、念願かなって、やっとの観劇が壮絶な大阪公演の千秋楽で、感慨深いものはありました。

 

でもそれ以上に「新演出版」初体験で、「おおう、ここまで変わっているのか!」と驚きが多く、非常に興味深い公演だったのです。

前回東宝版を見たのがいつかな、と思っていたら13年も前でした。

そりゃあ色々変わってて当然です(汗)

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しかも梅田芸術劇場で「エリザベート」を見るのは15年前の来日公演ぶりという新鮮さ!

そんなわけで過去の記憶との差異を楽しむ形にはなってしまったのですが、新演出版の方がよりマニアックになっている気がします。

個人的にはそれが楽しかったわけですが、日本ではもはやミュージカル観賞の入り口的演目にもなってしまった作品で、ここまでハプスブルク家ヴィッテルスバッハ家を「濃く」描くのは、いいのか悪いのか惑うところでもあるなと思いました。

 

宝塚版は「トートとシシィの恋愛」を軸にするという大いなる脚色があるのですが、今回の東宝版ではその脚色をかなり取っ払っています。

その結果、そもそも宝塚版初演のために追加された「愛と死の輪舞」が少し浮いている感じを受けました。

ルキーニが「エリザベートを殺した」動機を聞かれるオープニングで、「グランデ・アモーレ」という言葉は口にするのですが、日本語での「大いなる愛だ」というセリフはありません。

さらに最後にもう一度問われるところでは「偉そうなヤツなら誰でもよかったんだ」というようなセリフに変わるので、じわじわと最初の「グランデ・アモーレ」はルキーニの狂乱じみたところを見せていたのかもな、と思わせてくれます。

音楽は一緒ですが、微妙に追加&変更された歌詞やシーンの変更、順番の変更があって、個人的にはより「エリザベート死への逃避行」の物語に見えましたし、それが正解だとも思うのです。

宝塚月組版で愛希シシィを見たときに、上にリンクしたタイトルどおり「世間と自分との孤独な闘い」を繰り返す人物だなあと思ったのですが、新演出版はそこをもう少し、この人はこういう人なんだと受け取りやすくしてくれています。

お見合いシーンの後のフランツ・ヨーゼフのデュエット「あなたが側にいれば」で、「二人で世界中を気ままに旅しましょう」とか歌っちゃうので、「ああこの人はオーストリア皇后になること」も理解していない子どもで、とにかく「自由に生きたいのだ」ということがストレートに伝わってきます。

バイエルン王女を母に持つ、王家に近い貴族の娘という立場さえ窮屈だった子どもにとって、オーストリア皇后の義務と責務は非常にストレスであることも、より明確になります。

強いストレス環境の中で、「自分」を捨てることもできず、ストレスを解消するものすら禁止されている場合、「死」に希望を見出すのは非常によくわかるのです。

そして古川トートがまた純粋で、そこにある「死」そのもののように存在が弱くなったり強くなったりしながら「いる」ので、何であれ「死」が近いときに見えるほどに強く現れ、そうでないときは「ただいる」、そのバランスがすごく好みでした。またダンス力も発揮されて、その身体能力が「人物」ではないことをよく見せていたように思います。

元々がクラシック要素も高い楽曲な分、声楽畑のキャストが歌うとどうしても「ロック」の部分が弱くなるので、この演出版での「トート」は古川雄大の良さを発揮できる当たり役なんじゃないかと思いました。

 

自分の存在価値が見いだせない愛希シシィが、ハンガリー訪問で得た賞賛と国民からの愛に興奮し感激するシーンは、ここから彼女がハンガリーを愛することになるのも納得でしたし、最後通告を突きつけながら傷ついて、それでも可能性を信じて一旦「死」を追い払うのも、とても自然に見えました。

そこからの一幕最後の勝ち誇った愛希シシィの表情と存在が圧巻!

続く二幕の完全に「死」が見えていない、デュエットになっていない「私が踊るとき」がまた素晴らしくいい。死なずにそれを勝ち得たことの陶酔感がいい。でも独りよがりだったのだと、本当に一人で踊っていただけでそれでは満たされない思いから、この後の放浪生活にいたるのがスムーズでした。

その中でも特に精神病棟のシーンは、彩花まりさんヴィンディッシュ嬢の好演もあり、本当に「心が自由になりたい、このしがらみから解放されたい」という愛希シシィの魂の叫びのようでもありました。

ところで、うつ病の方が「本当に死ぬんじゃないかと思った瞬間」の一例を漫画で読んだことがあるのですが、そこには、本当に平穏で気持ちよくて飛び降りようとしていた、と描かれていました。

症状はそれぞれ違うと思うのですが、そうであるならば、ルドルフの死という哀しみの深淵にいるときは「死ぬ気力」すらわかなくて、そもそもシシィは「自殺」ができなくて、ルキーニのナイフを見たときに「今、この瞬間をとらえたら死ねる、つまりこの世のしがらみやややこしい自分の心から解放されるのだ」と思ったように見えたのです。

だからこのシシィは最後、自らトートに口づける。

死を自分から選び取り、解放されたのがよくわかるのが新演出版が面白さだと思います。

 

かつてあった「美女コレクション」などがなくなっている代わりに、ハプスブルク家ヴィッテルスバッハ家の不幸を見せるシーンがあって、これもハプスブルク家の黄昏、狂乱の血筋のヴィッテルスバッハ家を印象づけて面白かったです。

またフランツ・ヨーゼフがオーストリア帝国を継承したときには、もう度重なる戦乱で国は貧しくて、一般市民も自分たちのその日の生活のことで精いっぱいで、この先の第一次世界大戦第二次世界大戦へ流れていく予兆が差し込まれたのも、今、実際にわたしたちが「そこ」にいるのではないだろうか、という恐怖感もあり、とても興味深い改変でした。

このシーンの前に美しいギリシャ・コルフ島でハイネの詩を読み、孤独感に苛まれるシシィが描かれたのも印象的でした。

 

これだけ改変されているのですから、もう「愛と死の輪舞」は割愛、シシィが「死なせて」とトートにすがったときに「まだわたしを愛してはいない」と拒絶するのも割愛(トートが何も言わず去るとか)してくれてると、もっと一貫性があるようにすら思ってしまいました。

 

それからこれは13年前もそうだった記憶なのですが、一幕のシシィは「子どもの教育権を自分に取り戻す」ことを要求し闘っているのですが、取り戻したことに満足してその後は放置した、とルキーニに紹介される部分があります。

これがあると、やはりルドルフの「愛情への渇望」が伝わりやすいなと改めて思いました。

ルドルフは甲斐翔真さんだったのですが、美しくスタイルも歌声もよくて大満足。ハンガリー反乱軍の若者たちも見栄えする方が多かったので、今後のミュージカル界が楽しみです。

このようなコスチュームプレイの場合、やはりスタイルの良さというのは顕著にでるので、大阪ではなかった(恐らくしびれ雲に出演中だったため)井上芳雄さんの出演ですが、トートでなく彼のフランツ・ヨーゼフの方をぜひ見たいなと思ってしまいました。

佐藤隆紀さん、昔グランドホテルで拝見したときはスラっとしていらしたイメージだったのですが、ちょっと違っていて、壮年後のフランツ・ヨーゼフはいいのですが、16歳のシシィが結婚を申し込まれてポーっと結婚しちゃう説得力がほしかったなと思ってしまいました、すみません。

あ、涼風ゾフィー、きれいでしたし、歌は抜群にうまかったです。

それだけを求めて涼風ゾフィーを選んだので満足です。

あと今までも何度も見ているはずなのに、はじめてマデレーネで美麗さんの美貌に虜になってしまいました。今まで何を見ていたんだわたし、ってくらい妖艶で美しくて釘付け。フランツ・ヨーゼフが浮気するのも納得。

そして8人いたはずのトートダンサーは6人でがんばってくれて感涙。

1/31の博多座大千秋楽まで、無事の完走を心より祈っています。

ちなみに博多座千秋楽は配信が決まっています。

フランツ・ヨーゼフが見たいと書いた井上芳雄さんですが、トートとしてこの愛希シシィとどう対峙するのか、古川トートがとても相性よく見えただけに、配信で見てみたいな、とか思わせるあたり、やっぱりこの演目は面白い、です、わたしには。

帝国劇場 ミュージカル『エリザベート』