10/25(金) 18:30〜、10/27(日)12:00〜 梅田芸術劇場
作曲 クレイトン・アイロンズ&ショーン・マホニー
日本版脚本・演出 板垣恭一
サラ・バグリー 柚希礼音
ハリエット・ファーリー ソニン
マーシャ 石田ニコル
アビゲイル 実咲凛音
ルーシー・ラーコム 清水くるみ
ヘプサベス 青野紗穂
フローリア 能條愛未
グレイディーズ 谷口ゆうな
アボット・ローレンス 原田優一
シェイマス 平野 良
ベンジャミン・カーチス 猪塚健太
ウィリアム・スクーラー 戸井勝海
オールドルーシー/ラーコム夫人 剣幸
1.はじめに
日本でこのように大きな劇場でかかるミュージカルというのは、ほぼ100%興業会社の企画制作からはじまります。
今回の「ファクトリーガールズ」もアミューズというプロダクションの企画制作で、アミューズから「柚希礼音とソニン、二人が主人公のミュージカルをやってくれ」という依頼が脚本・演出家の板垣さんにもちかけられた、とプログラムに書かれていました。
そこからなぜ今回の「日米合作の新作」という面白い試みに発展したのか。
プログラムではケン・ダベンボード氏のホームページから「優秀な作品TOP10」の中にこの作品があったと記載されています。
(下記はその作品の詳細にあたります。原曲と英語脚本もリンクされています)
Broadway Producer Pick List: Factory Girls | The Producer's Perspective
しかし作曲家チームであるクレイトン・アイロンズ&ショーン・マホニーが作ったこの作品は「ニューヨーク大学のミュージカルシアターライティングプログラムの学位プロジェクトとしてはじめた」とのことで、未完成のまま置いておかれたピースでした。
2人にこの作品を完成させる予定があったなら、アメリカではまず演出家と組み、トライアウトを重ねてプロデューサーをひっぱり、オフ・ブロードウェイにかけて、ヒットすればオン・ブロードウェイに呼ばれる、という道筋もあったでしょう。
でもこの作品は日本の演出家から声がかかり、日本語の上演台本が作られ、上演するために必要な音楽を彼ら二人が新しく作曲をしていく、というレアな成り立ち方をしました。
まず最初に残念だったのは、この「レア」な点が大きく宣伝されなかったこと。
「日米合作の新作」という言葉だけでは、そこまでおもしろい挑戦であったことが伝わってこなかったのです。
このレアな点をもっと強調すれば、まずはミュージカルオタク層は確実にひっかかったと思うのです。
そしてその中の拡散力のある誰かが早目にこの作品のすごいところをふれまわれば、もっと観客を動員できたのでは、と思わずにいられないのです。
まだまだ荒削りだけれども、そのくらい「力のある作品」でした。
2.物語と感想
物語は19世紀半ば、産業革命中のアメリカ、マサチューセッツ州ローウェルという町の紡績工場が舞台です。
紡績で栄えていたローウェルに親の借金を返すため、女工として働きにきたサラ。
ローウェルで稼いで金銭的な問題を解決し、自分の自由な幸せを夢見ていたサラは、すぐに工場労働の厳しい現実にぶつかります。
一方でここでは「ローウェル・オウファリング」というローウェルで働く女性たちが自己啓発のために詩やエッセイを綴った冊子が作られていました。サラが工場に来たときには、それはマサチューセッツ州議会委員のスクーラーが発行していました。
その編集に携わっていた女工のハリエット・ファーリーはその手腕を見込まれ「ローウェル・オウファリング」の編集長になりました。
女性が言葉を綴る、意見するということが珍しかった時代「ローウェル・オウファリング」の評判は高く、世界から注目されており、その中心的な存在であったハリエットは女工たちの憧れでもありました。
しかしながら工場の経営はだんだんと厳しくなり、そのしわ寄せは女工たちの労働にそのままふりかかります。
もともと日の出から日の入りまでという長時間労働であるのにノルマが増え、鯨油ランプの導入により労働時間は延長され、労働環境は劣悪になっていきます。
ハリエットによって文章で自分の考えを発信することを学んだサラは、現在の状況を訴えるエッセイを書き上げ、「ローウェル・オウファリング」に寄稿しようとします。
しかしサラの原稿は発行人のスクーラーやスポンサーたちを刺激する危険なものだと判断したハリエットは掲載を拒否します。
そして署名を集めて州議会に提出することをサラに勧めます。
一緒に働く女工たちとともにリーダーとして行動しはじめるサラ。
1人で女性の地位向上のために戦うハリエット。
そんな社会と戦う女性たちの姿を描きだす作品でした。
舞台セット、照明、衣装に振り付けというハード面は目新しさはないものの、高水準の美しいものでしたし、何よりクレイトン・アイロンズ、ショーン・マホニーの曲が面白いのです。
スポットを見返して余韻に浸る。 https://t.co/6qcQ7Yy92m
— oto (@sat_oto) 2019年10月28日
2007年に作られたとはいえ、今回のために新しい曲も作った二人。興味のある方は下記の二人のインタビューをどうぞ。
『FACTORY GIRLS』作詞作曲・クレイトン・アイロンズ、ショーン・マホニー:“国際的プロジェクト”の新たな形 - Musical Theater Japan
ハーモニーの重なり方や転調の仕方がとても新鮮で、歌う方は大変だろうなと思いつつ、まず音楽にとりこまれました。
そして音楽が魅力的ならばその作品はもう半分以上ミュージカルとして成功、だとわたしは思っています。
そしてキャスト陣がまた魅力的でした。
元々「柚希礼音とソニン、二人を活かせる舞台」という最初の条件があったこともあり、とくにサラの柚希礼音は日本語版脚本では「あてがき」されています。
柚希礼音のもつ存在感と類まれな才能で知らない間に周囲を惹きつけ、リーダーとなっていく姿は、本来のサラ・バグリーという人よりも宝塚トップスターとなっていった柚希礼音そのものでした。
ダンスのシーンも盛り込まれ、もはやこのサラは柚希礼音以外の人が演じたら違和感さえ覚えることでしょう。
またそのダンスシーンがいい。振り付けもいいし、心情を踊りで表現できる柚希礼音が、改めてすごい。
一方のハリエット役ソニンは、逆にここまで緻密に「ハリエット・ファーレイ」という人を表現するか、という繊細な演技が見事でした。
過酷になっていく労働状況に疑問をもち、仲間に盛り立てられ、みんなのために、そして自分のために活動していくサラの物語は分かりやすく爽快です。
けれどハリエットの孤独な闘いは、状況の説明が少なく、ハリエットが何でそれほどまでに慎重になっているのか、何がハリエットの問題なのか、「今がチャンス」と歌うもののその「チャンス」はどこにあるのか、一切が描かれないなかで、それでもこの人は何かサラを含むほかのファクトリーガールズに見えていない社会が見えていて、それにたった一人で挑んでいるのだ、と納得させるものがありました。そのハリエットの孤独は痛いほどに伝わり、震えながら「ペーパードール」という曲を歌う彼女を抱きしめたくなるほどでした。これはソニンにしかできなかった、そう思います。
(ちなみにソニンさんは「ローウェル・オウファリング」を読んでこの役に挑んでいます。その辺もさすがというか、カッコイイ!)
そして2人が歌う「あなたに出会えて」がまたいいのです。内容的にはWICKEDの「for good」と同じ感じなのですが、2人の声の相性がいいのか、美しいハーモニーが絶品でした。
知的なアビゲイル、キュートなルーシー、芯の強いヘプサベス、明るいマーシャ、純粋で優しいグラディーズ、そして暗い過去と戦うフローリアなどファクトリーガールズたちも全員魅力的で、もちろん男性陣もしっかりと枠を固めていました。
オールドルーシーが過去を振り返るという形で描かれたこの作品は、ルーシーの講演会という形ではじまります。
何もない舞台に一人で真ん中にたち、聴講客として見立てられた観客席に語りかける剣幸さんの存在感がまた光っていました。ラーコム夫人であり、ストーリーテラーでもある演じ分けもみごとでした。
3.日本で響く「メッセージ」と言葉
しかし何よりこの作品の魅力は「メッセージ性」だったと思います。
19世紀半ばのアメリカ工場労働者の物語は、残念ながら現在の日本の労働の場に共通する問題を多く持っていたのです。
滅私奉公を尊いと思う価値観。
ファクトリーガールズは「女性の権利や地位向上」を目指した物語ですから、女性の労働に対する問題を浮き彫りにしていきます。そしてそれは残念ながら今も変化のないものも多いのです。
劇中でハリエットが「スポンサーから(ハリエットが)一緒に酒を飲んでくれなかったというクレームがあった。その辺はうまくやってくれ」というような言葉をスクーラーから言われるのですが、今この瞬間でもこういうことを言われている労働者は多いのではないでしょうか、性別問わず。
何のために働くのか
生きるためには仕方ないのか
この歌詞は自己を犠牲にして働いている人たち全員の心の代弁だと思うのです。
だからこそ、わたしはこの物語、この作品を「本当に必要な人」に見てもらいたいと切望しています。
なぜならわたしはもう「観劇」をはじめとする趣味をもち、そのための資金源として自分の楽しみのために働いているからです。
誰のためでもない。もちろん金銭的な不満や将来的な不安はたっぷり抱えていますけれど、それはわたしが選択したものであり、「自由な選択」に基づいた結果なので受け入れています。
けれど世の中にはそうでなく働かざるをえない人もいる。
ファクトリーガールズたちのように夢をもって働き始めたのに、働いているうちに見失ってしまった人たちもいる。
そういう人たちがこの作品を見れたならば、何か「助け」になる言葉、心に響く「言葉」を受け取れるのではないかと思うのです。
そして、漠然とした将来に不安を抱えている若い人たち。
彼らがこの作品を見たならば、生きていくうえで何か「支え」となる言葉に出会えるかもしれない、とも思うのです。
ファクトリーガールズは「言葉の力」を信じる物語でもあるのです。
自分の考えを言葉にすることの強さ、を見せてくれます。
これはおそらく、アメリカでは訴求できない点というか、訴求する必要のない部分でしょう。彼らは「自分の気持ちを言語化し、他人に伝える」教育を受けているからです。
けれども日本ではそういった教育があまりなく、社会に出て「言語化」の難しさを知り、そのテクニックを必要としているように感じています。そしてインターネットの発達で「多数に向かって発言すること」が容易になったからこそ、「正しい言語化」のために書店でも「文章術」の本がたくさん売られているのでしょう。
劇中でハリエットに対して「意見を述べる女性が現れるなんて」というようなセリフが出てきます。それに対してハリエットはこう答えます。
驚かれるかもしれませんが
女性も言葉を持っていると
「みなさん お忘れなく」
そしてサラは「言葉」を使って「自分の意見」を述べることを覚える。
その「言葉」に賛同してくれる人たちが集う。
1つの力となって行動する。
この過程がとても魅力的でしたし、「何かをしたい」と思ったなら、サラをなぞらうこともできる、そういう道筋を見せてくれる作品でもありました。
4.ファクトリーガールズとはどんな存在だったか
一方で気になる「言葉」がありました。
ファクトリーガールズたちが「奴隷じゃないわ、娼婦でもない」と歌うシーンです。
これは南北戦争以前の物語で現実に「奴隷」がいた時代の話です。さらに「娼婦」にいたってはそれも「職業」です。彼らとは違うのだと叫ぶことは差別ではないだろうか、とも思いました。
ちなみに原歌詞ではこの部分にあたります。
OH I WILL NOT BE A SLAVE
I CANNOT BE A SLAVEFOR I AM SO FOND OF LIBERTY
I CANNOT BE A SLAVE
(奴隷にならない、奴隷になれない
自由を愛するから、奴隷になれない)
ファクトリーガールズは日本の世界史の授業でならうところの、「アメリカ独立戦争」と「南北戦争」の間の時代であり、「アメリカ人とはなんぞや、アメリカ人たるものとは」みたいな意識が芽生えていた時代だと推察されます。
だからこそ、上記の原歌詞が生み出されたのだと思います。
「市場革命の時代における女工たちの労働運動──マサチューセッツ州ローウェルを中心に──久田由佳子著」という論文にこのような記載がありました。
論文の英語タイトルは「I Cannot Be a Slave: mill girls' protests during the market revolution」となっています。(下記より論文を読むことが可能です)
操業開始当初、ヨーロッパのような劣悪な状態を避けるために、また工場労働と貧困が結びつけて捉えられないように、労働力をニューイングランドの農家出身で「教育と美徳を身につけた」未婚の女性たちに求めた。会社は、彼女たちを引きつけるために寄宿舎を建設し、「尊敬されうる」寡婦たちに管理を任せた。
ヨーロッパの劣悪な状態、といわれると「レ・ミゼラブル」のフォンテーヌが働いていた工場が頭に浮かんだあなたは間違いなくミュージカルオタクです(笑)
それはともかくとして、ローウェルの女工たちは「教育と美徳を身につけている」という自負があった、それが超訳となって「奴隷じゃない、娼婦でもない」という歌詞につながっているのかもしれません。
同論文の中には下記のような記述もありました。
『オファリング』と『ヴォイス』の編集者はいずれも、女工が労働者を非人間化しようとする機械の抑圧的な力から自分たちを守り、労働で手を汚すことのないレディたちと自分たちが教養にかけては対等であることを証明しようとしていた点では一致していた。
『ヴォイス』とは「ヴォイス・オブ・インダストリー」の略で、劇中でサラが寄稿していた新聞です。サラはのちに編集者にもなったと論文には書かれています。
この文章からも彼女たちが「奴隷」とは立場が違っていることを認識していることがうかがえます。
そして、このような記載もありました。
ファーリーは、昨今の労働条件悪化の中では、ローウェルで開催される反奴隷制フェアに女工たちが参加するかどうかは期待できないといったことを書いていた。(中略)ファーリーが女工たち一般の奴隷制廃止問題に対する関心度を疑問視していたことは明らかである。
ハリエットが奴隷制度について問題視していることは劇中でもさらっと交わされるセリフがあります。しかしサラがどうだったかは今のところ証明するものがないようです。
もしアメリカでこの作品が英語で上演されることがあるならば、この時代のいわゆる「ローウェル・ミル・ガールズ」の考え方や立場といったものも重要な点だと思います。
彼女たちがあそこまで戦う必要があるほどにみじめには見えなかった、という意見も聞きました。
実際のところ、当時のアメリカを旅行したハリエット・マーチノウの「ウォルサム及びリンにおける状態」ではこのような記述があります。
人々は平均して週に70時間ほど働く。労働の時間は陽の長さによって異なる。けれども賃金の額は変わらない。すべてのものは、良いみなりをした若い貴婦人のようにみえる。健康状態はよい。
(原典アメリカ史第3巻[原典]ハリエット・マーチノウ「ウォルサム及びリンにおける状態」より)
もちろんこの「原典アメリカ史」でも、このような視察が入るときのみ清潔にした可能性についても言及されているし、劇中でまさしくそのようなシーンがあります。
とはいえ、ローウェルの女工たちが、他と比べると「比較的マシ」な状態であったことは確かなようです。
劇中でも最初の方は「福利厚生」的な扱いで会社主催の「舞踏会」が行われていたりします。(「舞踏会」というと豪華な宮廷で行われるものを想像しますが、普通に公民館とかで行われるパーティーです。なんでわざわざ「舞踏会」なんて言葉にしたんだろう)
ローウェルの街には、パーティーのための服を買う店があり、図書館があり、学べる環境があった。それこそ自己啓発の一環として「ローウェル・オウファリング」を制作・出版できさえしたのです。
比較すれば貧しいけれど、文化的に豊かでした。でもだからといって沈黙からは何も生まれない。
「問題は問題」として「声をあげる」ことの大切さ、それがこの作品で描かれていた一つの大きなポイントではないでしょうか。
ただ日本ではこの作品の中で「彼女たちが持っていた無意識の上から目線」については別に見せるべきところでもないと個人的には考えます。
それよりももっと、「人形じゃないわ、機械でもない」、わたしたちは「生きている人間だ」という方にフォーカスしてよかったように思います。
5.再演可能であるならば、その時の要望
そういうブラッシュアップもかねて、本当に切に再演を希望します。
プログラム内のキャスト対談でソニンさんが今回の公演の問題点として、下記3点をあげていました。
①公演期間が短い。
②口コミで広がる間もない。
③近いうちに再演を打つができるくらい仕上げないといけない。
①と②の問題が本当に表面化して、とりわけ大阪公演は客入りが悪く、再演が可能なのか非常に心配な状況です。でも万が一、再演が決まることがあるならば、まずポスターの改善を求めます。
ふんわりした印象のポスターと作品の強さがあまり合っていない、という意見も多く見かけました。たしかにこのポスターからこんな物語だったとは、わたしも全く想像できませんでした。
再演の際のポスターは、ファクトリーガールズの中で語られている言葉、歌われている言葉をそのまま「宣伝」に使ってみたらどうでしょうか。
疲れ切った帰りの、そして憂鬱な朝の通勤電車の中であの「言葉」たちが目に入ったら、見に行ってみようという気持ちにならないでしょうか。
手に入れたいのは
ひとりでも笑える勇気
私は“私”を生きたい
力が欲しいの
理不尽と戦える力を
世界に広がる自分の言葉で
声を上げてみよう
誰かと手をつなごう
みんな1人だから
いつか私が終わるとして
誇りをこの胸に歩き続けよう
世界はまだ変われるから
そしてこの歌詞のように、若い人たちには「自分次第で世界は少しだけ変えることができるかもしれない」という可能性を見せてほしいのです。
今回わたしがこの作品を見に行くのを一番ためらった原因がチケット代でした。そうでなくても見たい作品が多い時期で、さらに一番安い3階の天辺の席でも8,500円もしたからです。
もちろんこの作品にはそれだけの価値があります。再演されたら1番高い席で観に行きます。
でも見ないとわからない。最初のハードルが高すぎる。
だからこそ次回はスポンサーを入れて、少なくともU25チケットの設定と学生シートの導入を検討してもらえると嬉しいです。
この作品のスポンサーになってくれる勇気ある会社があるならば、それだけで尊敬に値します。
労働者側の問題を描いた作品のスポンサーになるというのは企業として成熟していると思えるからです。