こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

キュリー夫人をマリー・キュリーに戻す意義@ミュージカル「マリー・キュリー」

4/22 18:00~ @シアター・ドラマシティ

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スタッフ

脚本 チョン・セウン

作曲 チェ・ジョンユン

演出 鈴木裕美

翻訳・訳詞 高橋亜子

振付 松田尚子

 

キャスト

マリー・キュリー 愛希れいか

ピエール・キュリー 上山竜治

アンヌ 清水くるみ

ルーベン 屋良朝幸

 

先行された東京での公演の評判が非常によく、なんとなく「見ておかなくては」な気分になって、見に行った作品ですが、残念ながら私には合いませんでした。

ということで、この作品に涙するほど心揺さぶられた方はぜひ、そっとこのページを閉じてください。

と言っても別に「こういうところが受け付けないんだよ!(怒)」みたいなことはないですし、そもそも見に行こうと思った要因の一つは「フェミニズム的要素」が高いと聞いていたからだったので、こういう作品で「今まで当たり前のように受け取っていたけれど、考えたらそうだよね」と気づかせてくれるのは、とても意味があったと思っています。

 

この作品は

Fact(歴史的事実)とFiction(虚構)を織り交ぜたファクション・ミュージカル

だと説明されていました。

しかしながら、私の「マリー・キュリー」についての知識といえば「原爆の材料となったものを発見した人だっけ???」くらいの、ほぼ無知に近い状態でした。

なので、どこまでが「歴史的事実」でどこまでが「虚構」なのかは見ていてさっぱり分からなかったのですが、朝ドラや大河ドラマしかり、歴史的な人物や事実を扱った多くの作品が、事実と虚構を混ぜているのは普通なので、とりわけて強調する必要があるのだろうか、とも思いました。

でも後からインターネットで分かる限り調べて思ったのは、このミュージカルをまるっと「マリー・キュリーの生涯」だと信じてしまうと危ういなということでした。

つまり「マリー・キュリー」は一般的にその人物像はよく知られていない。

そして朝ドラや大河ドラマと違って、何も謳わず上演したら「これはドラマとして脚色しているもの」という意識を持たずに見てしまう可能性が非常に高い。

だから上記の肩書は必要だったのだと思います。

 

子どもの頃、下記のような漫画の伝記で読んだきりだった「キュリー夫人」。

Amazonで検索する限りでは、「キュリー夫人」と「マリー・キュリー」とどちらも出てきますが、私が子どもの頃は「キュリー夫人」しかなかったような気がします。

ヘレン・ケラー」、「ナイチンゲール」、「アンネ・フランク」・・・

みんな個人の名前なのに彼女だけ「キュリー夫人」であることに違和感を覚えたことすらなかった事実が突き刺さりました。

これには、最初のノーベル賞受賞が夫ピエール・キュリーアンリ・ベクレルと共だったことも多いに影響している気はします。

それこそ彼らの研究がどのような比率で行われていたのか、最初のノーベル賞受賞の際にマリーがどのような気持ちを抱いていたのか、真実は分かりません。

そしてそれを提示したことが、このミュージカルの意義だったのかもしれない、とも思います。

 

一方で「虚構」として「アンヌ」という人物が登場します。

アンヌとともに働く人々は「ラジウム・ガールズ」と呼ばれた女性たちをモデルにしていることを後から認識したわけですが、これをミックスしたことによって「科学がもたらす恩恵と被害」とそれを「発見する者の覚悟と孤独」みたいなところは、よく伝わりました。

が、ここをミックスしなくても、そこのところは伝えらえたのじゃないのかなと思います。

アンヌとの友情、がこの作品の見せ場で感動ポイントであったことはよく分かったのですが、そうしたことによって個人的には物語としてまとまりを欠いたように思えたのです。

とりわけ最後、アンヌがマリーを許し称え、そしてラジウム・ガールズ的な人々も彼女を称えるのが違和感を覚えてしまいました。

ラジウム・ガールズ問題は、本来マリーの晩年、遠く離れたアメリカで起こっています。これについての責任は、すでに危険性を知っていながらそのような作業をさせた雇用主にあって、マリー自身の問題とは少し違う気がするのです。

けれどもこの作品の中ではミックスさせることにより、マリーも危険性を知りながら確実に工場を止める努力を怠ったように見えてしまう。

この作品には、マリーが女性であることによる差別とともに、ポーランド人で移民であることによる差別も描かれ、ラジウム・ガールズ的な人々は同じポーランドからの移民であることが示されてもいます。

だから「マリーが彼らを見殺しにしたのに、彼らがマリーをポーランドの星と称えている」ように私は見えてしまい、この部分が個人的に受け入れるのが難しく、本来最も力のあるシーンだったはずのところで気持ちが付いていかなくなってしまったのが、合わない一番の原因だったと思います。

 

この作品を見る限り、マリーにとってピエールはとても良きパートナーに見えました。

なので、どちらかというと科学オタク同士の運命的で幸せなパートナーシップや、科学オタクゆえに色眼鏡を持たないピエール、を描いてくれた方が、私は楽しく見れたのかなあと思います。

何より最初マリーがピエールに「なぜ科学を学ぶのか」みたいなことを聞かれたときのマリーの返答を歌で聴きたかったのです・・・!

それこそがマリーの「情熱」であり、「心」であり、ミュージカルとして「歌になる部分」だと私個人は思いました。でもこの作品は、そこをまるっと敢えてミュートしていたのです。それはこのミュージカルの新しい表現方法であったとは思います。

でも「私の中のミュージカルの気持ちいいあり方」とこの作品は微妙にずれていて、そこが見ていて乗らなかったのだなと感じました。

ピエールがマリーに惹かれるきっかけとかも「キミの天才的な答えの導き方が好き」とか「元素への情熱が素晴らしい」とか歌ってくれたら面白かっただろうなとか、ちょっと考えてしまいました。

でもそんなピエールでも、マリー主導の研究成果がノーベル賞を獲得したときには、自分が先導で呼ばれるのは当然、みたいな感じで、授賞式出席を巡っての二人の対決みたいなものとかも見たかったな、とか、やっぱり題材としてはとても興味深いものだっただけに「また違うあったかもしれないマリーの物語」の方を見たかったな、と思ってしまいました。

そしてそれには、もう少しセリフと歌詞の重複のバランス、歌とダンスのバランス、そして振付も変えたものが見たいなと思っています。

そして音楽も。韓国の方が世界で通用する音楽を発信しているイメージがあったので、少し期待していたのですが、ミュージカル曲としてはまだそこまで強くないのだなという感想を抱いてしまいました。

(ただ放射能の未来として原爆の示唆があったのには驚きましたし、そこまで描くのは凄いなと感じ入りました)

 

作品自体には思うところあれ、マリー・キュリーを演じた愛希れいかさんは、冒頭のシーンから演技スキルを「これでもかっ!」と魅せつけて本当に素晴らしかったですし、ばっさりと切り捨てられていてもピエールを魅力的な人物に魅せた上山竜治さんも、本当によかったです。

ピエールがステキに見えたからこそ、私も思わず上記のような妄想を抱いてしまいました。

そしてソルボンヌ大学の学生から工場で働く人々まで、8人で演じ歌い踊ったアンサンブルの皆さんも素晴らしい!

アンヌの清水くるみさんは、架空の人物だけに、そしてその立ち位置が微妙なだけに、落としどころが難しかったのではと感じました。でもスキルは文句なしだし、かわいい!だからこそ、脚本と演出が「アンヌ」を見せられるとよかったのになと思います。

いや多分多くの人がちゃんと「アンヌ」を見れていたけれど、私の方が曇っていたのだとは思いますが、そんな私にも見える「アンヌ」だと、もっとよい作品になっていたんじゃないかなと、ちょっとだけ思わずにはいられない、そんな作品でした。