こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

内側へ向かう狂気を見る@ブラック・スワン

ブラックスワンを見てきた。
ホラーとかグロとか怖すぎる、とか言う感想を耳にして多少ビビりながら赴いたのだけど、見終わって思ったのは、別にホラーでもグロでも、トラウマになるほど怖くもなかった。
それは、何より彼女がああなった原因がはっきりと見て取れたから、だと思う。そして、私は彼女のようにはならないだろうことが分かっているからだ。

ブラック・スワンは、元バレリーナのステージママに育てられたバレリーナの内側に抑圧されたものが、自傷へ向かう話だった。

とりあえず、思ったのは、ああいう性格の人が、あんなプレッシャーのかかる仕事をしちゃいかん、ということ。
私は自分に根性がないのも知っているし、いい感じには鈍感だけど、激しい感情にさらされる世界で、それを気にしないでいれるほど、強くもないのも知っている。だから、この人生を生きている。
それでも、どうして、彼女はあれを望んだのか、私はバレエに対して無知に等しいから、真実のところは分からないけれど、そこがバレリーナの業なのかもしれない。

それとは別に、いまいち分からなかったのは、彼女があれほどまでに追いつめられても、決して役を演じないことだ。彼女は彼女の気持ちのままで、舞台に立つ。バレエはスキルと表現力の世界で、その二つがあれば、演じる必要がないのかもしれないなあ、と今更気づく。
そこが、ダンサーという身体表現者の能力が役者とイコールにならないところかもしれない。

そして、もう一つ不思議だったのは、振付・演出家が、彼女のような人間を主役に抜擢したことだった。舞台の主役でいる、ということは技術のほかにも、それに見合った精神力も備えていることが必要だと思う。
ただ、彼のインスピレーションが、彼女やその前のプリマのように、壊れかかった者から見いだされるのであれば、それこそ、業だな、と思う。
その彼の描きたい世界と、彼女が壊れてはまる世界が一体となった、最後のバレエシーンは圧巻。それまで蚊のなくような声で話していたナタリー・ポートマンの鬼気迫る気迫が伝わる素晴らしい舞台だった。これを、見たい、と思った。

そう思うと、観客も、業の者。
だから、劇場には何かが住んでいるのかもしれない。