こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

あの日から5日後に書いた個人的な日記@東北の震災の日に

2011年3月16日にmixiに書いたものです。
本当はラ・ラ・ランドの感想をアップするつもりでしたが、さすがに日が日なので、改めようと思います。
この日書いたよりも東京は精神的に普通の日々を取り戻すのに時間がかかりましたね。

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私の日記のスタンスは「未来の私のため」。
なので、地震のことも一応記録しておこうと思う。
読んで不快になられる方もおられるかもしれないけれど、逆に関東以外の方々がどんな感じだったのか知りたいと思われる方もいるかも、ということで、公開範囲はいつも同じにした。

地震発生した金曜日の午後3時前、今と同じようにパソコンに向かっていたら、揺れを感じる。
しかしこの段階ではゆらりゆらりとゆっくり揺れている程度で、あ、いつものか、ぐらいでいると、あっという間に強い揺れとなり物が倒れ出す。
これはまずいな、と一応机の下に避難。すぐに治まるだろうと思っていたら、これが意外に長く続いて、揺れの強さよりもそのことの方が怖かった気がする。とは言え、恐らく立っていたとしたらキープは出来ないだろうくらいの揺れ。真っ先にストーブを消す。
阪神の震災時、実家は11階。今の事務所は6階。なもので、揺れの体感としては阪神の震災時の方が強く、電気も一瞬消えてまたついたので、恐らくこの程度なら東京は大丈夫だろう、と思ったのも事実。

机の下から出てみたら、床一面にパンフレットの海。鍵のかかっていなかった窓は開いていた。
カラーボックスの上にブックスタンドで立ててあったものは、それなりの飛距離をもって床に散乱。けれど、社長の本棚は殆ど散乱せず、これもまた、阪神の震災よりはましだな、とちょっと安心した材料の一つ。
とは言え、あくまで東京は無事そうなだけであって、あの時の神戸のような箇所が出ていることは想像がつく程の揺れ。とりあえず、すぐさま別室のテレビをつけようと行ったら、テレビが倒れている。起こしてつけて、ようやく東北地方での災害を知る。

このとき、社長は展示会会場に向かっていて、会社には私一人。
これが最も不安だったと言えばそう。
千代田区からの地震の放送が流れる。これを聞いたのははじめてだった。

で、まあ、余震があることも思ったけれど、とりあえずぼちぼち片付けはじめ、高い場所には返さず、低い位置に置き直す。社長の部屋が一番酷く、CDラックは崩壊。仕方ないので机の下にCDを積む。開いた窓は寒いけれどそのままに。避難口を確保。ふと、メールを見たら妹から来ていてびっくり。で返信していたら、余震。今度は下から縦揺れがやってきて、その振動が一番びくっとした。しょうがないので再び机の下で妹にメールを返信。妹は電話もかけてくれてたのだけど、それが繋がらなかったことをここで知る。しかしながらこの時点ではメールは双方向普通に送れていたのだ。

余震の揺れが終わって、部屋をなんとか見れる程度にかたして、ベランダから外を見てみたら、目の前が小学校なので、何人か防災ヘルメットを被った人が小学校の入り口に集まっている。そう言えば、余震の揺れが終わった直後、小学校の館内放送ではまだ机の下から出ないようにと流れていた。

抜けるような青空と強い日差しと非日常感のある空気。
東京はぴっかぴかに晴れていたのだ。

この辺りで社長の帰還。地下鉄駅構内で地震にあったとのこと。
いくつか来ていたメールを処理して、社長とテレビを見る。
で、帰るなら明るいうちがいいのでは、という話になり、iphone先生で調べてみたら、自宅まで徒歩1時間39分と案内される。迷ったけれど、電気も通じていて、さらに東京には九段会館以外の被害を聞かなかったので、そのうち地下鉄が再開されるだろう、という結論に達し、ここで社長は徒歩通勤の自宅へ戻る。
夕方5時にして、再び会社に一人。
テレビは被害の状況を伝えるだけで、交通機関等の案内はなく、この辺りからメールは頑張って再送し続ければ送れるけれども、どうも受信はしていないらしい、ということに気づく。
電話は会社の電話も携帯ももちろんアウト。ダンスのレッスン日だったのだけど、この時点で電話連絡することを諦める。
そんな中、最も活躍してくれたのがtwitterだった。

交通機関が当日中には復帰の見込みが低いことをTL上で知る。
ミドリさんとはtwitter上で連絡が可能だったので、ふと思って調べてみたら、ミドリさん家まで会社から徒歩で40分ほど。これなら歩けるかも、と連絡して、泊めてもらうことに一旦する。
けれども、ミドリさんもしばらく会社待機。そうしているうちに日は暮れて、さすがに知らない場所に歩いて行くのが不安になった矢先、社長から会社に泊まっていいとの連絡。

私が幸運だったことは、会社に泊まり込みようの寝具一式があったこと。そしてこの日ダンスのレッスン日だったので、レッスン着とタオルとメイク落とし他、基礎化粧品一式を持っていたこと。さらに、数日前からのホルモン状態の乱れによる褐色おりものが微量あって、パンティーライナーも持っていたのだ。不快に過ごす要因が低い。ということで、泊まり込みを決め、食料の買い出しに出かける。
もちろん、エレベーターは止まっている。

近くのコンビニはすごい人。そして、おにぎりとパンは軒並み売り切れ。しょうがないのでカップ麺と野菜ジュースとなぜか目に付いたてんぷらのパックを購入。帰社したらデザイナーさんからの電話が通じてびっくり。で、会社から家に電話かけるもやはり不通。
とりあえず食べて、全身に疲れを感じていたので、早々に布団をひいて、メイクも落として、いつでも寝れる体制に。大活躍のiphone先生の充電が50%を切り出した頃、一挙にメールを受信。それでもメールの時間差は治らないし、なにより充電が不安。そして、やっぱりテレビや電気を切る勇気はなく、疲れているけれど寝れるかなあと思っていた頃、なんと東京メトロ銀座線と半蔵門線が再開。それも全部twitterで知る。電車でミドリさん家に行ける条件が整ったのだ。
とは言え、再開したばかりの電車に乗れるものなのか不安もあってしばらく様子を見ていたら、都営大江戸線も再開。ここまできたらなんとかなるだろう、ならなかったら会社に戻ればいい、と決意し、twitterでミドリさんに向かう旨だけ連絡して、会社を後に。その時、偶然袋小路林檎からの着信があって、これまたびっくり。ちょっと話して、とりあえず先を急ぐ。

案の定、銀座線は渋谷駅の混雑で乗車規制がかかっていたので、意を決して半蔵門線乗り換えの一駅先まで歩く。車は渋滞、人も夜とは思えないほど多い。けれどコンビニは軒並み閉まっている。
半蔵門線まで着いてみたら、銀座線とは比べられないほど落ち着いた雰囲気。ミドリさん宅へ向かう方面の電車は混んではいたけれど、満員ではない。何より、駅売店が開いてて感動。この時点で10時くらいだったと思うのだけど、販売のおばちゃんが頑張ってくれていたよう。みんなお菓子やら飲み物やらを買っていたけれど、少しでも早くミドリさん宅につきたかったので、そのまま乗車。

ミドリさん家の近くのコンビニが開いていたけれど、やはりパンとかはなく、野菜ジュースと明日の朝用の栄養補助食品的なものとどら焼きを購入して、到着。
やっぱり、数時間ずっと一人で、溜まっていたのか、ミドリさんところに辿りついたときは本当にほっとした。
この頃には東京メトロはじめ、私鉄が徐々に運行開始。自宅にも帰れるようになったのだけど、そのままお邪魔させて頂くことにする。こういう事態に電話もようやく通じ、一安心。

とは言え、やはり緊張があったのか、翌日自宅に到着したら、体中筋肉がこわばっていて、腰痛を発症。情けない。

けれど、阪神の震災経験者は、恐怖が蘇ってもっと怖い、と言われているようだけど、私に関しては、もちろん大阪にいたのが大きく幸いして、あの時の経験が落ち着かせてくれた気がしている。
ふと気を抜いた頃に大きな余震がくるのも、2回目の経験になると必要以上に怖がらずにすんでいる気がする。だから、正直、関東の方のが怖いんじゃないかと感じるのだ。電車でも棚から物が落ちるような揺れ、はじめて体験したという会話が聞こえてきて、そうだよな、私は二回目だな、と思ったのだ。
もちろん、原発の問題とかはあの時は発生しなかったことだけど、よく分からないものを怖がっていてもしょうがないな、と思う。まあ、阪神の震災の頃は受験生だったので、ここで死ぬなんて死にきれない、と思ったけれど、今はまあ、やりたいことやって十分遊んで、人生謳歌したのもある^^;死にたい、というのではなくて、ま、今死んでもいい人生だったと思えるなと^^;

だからまあ、余震は相変わらず続いてるけど、都内なもので、計画停電のエリアからも外れ、通勤経路も問題なし、で恵まれているし、元気です。そして、計画停電以外は殆ど被害を受けていない東京都が、あの時の大阪と同じように、精神的に普通の日々をまもなく取り戻すのも想像できています。

とりあえずは出来る範囲の節電と募金。
後は普通に、過ごしたいなと思います。