こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

立っているだけで支配する@劇団☆新感線いのうえ歌舞伎《亞》けむりの軍団

 10/12(土)フェスティバルホール 18:30~

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脚本:倉持裕

演出:いのうえひでのり

キャスト

真中十兵衛 古田新太

飛沢莉左エ門 早乙女太一

紗々清野菜名

雨森源七 須賀健太

嵐蔵院 高田聖子

残照 粟根まこと

美山輝親 池田成志

 

こちらに書いたように、わたし実は生で「いのうえ歌舞伎」を見るのははじめてになります。

 

stok0101.hatenablog.com

そんなはじめての「いのうえ歌舞伎」はこんな内容でした。

 

戦国時代の真っただ中、目良家に政略結婚で嫁いできた紗々姫は、嫁ぎ先が約束を破ったことに危機を感じ、実家である厚見家に戻ろうと家臣の雨森源七とともに逃げ出す。

しかしながら雨森源七だけでは厚見家まで無事にたどり着くのが難しいと感じた紗々姫は、とある宿屋で出会った真中十兵衛と美山輝親にも護衛を頼み、目良家からの完全逃亡を図る。

成り行きで紗々姫とともに目良家に対立することになった真中十兵衛と美山輝親。

さまざまな奇策を用いて、対抗していくのだが・・・。

 

保身のためのウソ、周囲の勝手な思い込み、そしてそれを利用してウソにウソを重ねて、だまし、だまされる構造はシェイクスピア喜劇のようで、とても面白く見ました。

黒澤映画へのオマージュをちりばめた、とのことだったので、黒澤映画をご覧になられている方はもっとこまごまと面白かったのかもしれません。

劇団☆新感線の舞台というと「映像」の演出が特徴的なのですが、今回はワンシーンが終わって幕、そこに映像が流れて舞台転換、というつくりでした。

もちろん映像の使い方は「あ、ここで名前紹介とか出るのかー」とか興味深かったのですが、舞台としてはよく言えば「シンプル」、悪くいえば「ワンパターン」な転換でした。

セットもちゃんとしているけれどとりわけ物珍しいものもなく、盆が回ったり、セリがあがったりすることもなく、舞台の使い方としては本当に見どころが全くなかったのです。

それが返って不思議だったのですが、ふとこの演目に「いのうえ歌舞伎」と肩書がついていることを思い出しました。

「いのうえ歌舞伎」とはいのうえかずきさんが役者に「歌舞伎的」な演出をすることだと勝手にずっと思い込んでいました。

特に上記にもあげた「阿弖流為

 

 の映像特典で中村七之助さんが「古田新太さんとかいつも自由に演じていていいなあと思っていたけれど、いのうえさんの演出を受けると、ここで三歩歩いて振り返ってセリフをこう言うとか歌舞伎のやり方と似ていて驚いた」的なことをおっしゃっていたことが、この思い込みの原因かと思います。

何が言いたいかというと、この「一場面ごとに幕がしまって、次のシーンになる」という手法そのものも、考えたら「歌舞伎」だったということなんです。

たしかに古典歌舞伎の演出って、花道とか使っていてもその間にセット転換することはないんですよね。

なので、幕に映し出される映像の文字は歌舞伎の「イヤホンガイド」だと思えばいい、と考え直すと、なんかすっきりしました。

とはいえ、特にラストシーン前の登場人物たちのその後が映像文字で流れるところは読むのが大変だったりもしたので、脚本・演出ともにブラッシュアップしてくれると嬉しいなあと思います。

もしくは「いのうえ歌舞伎」にも「イヤホンガイド」を導入してみるのも面白いかもしれません。

演出で1つ印象的だったのが、妖願寺のシーン。

ここで読経で歌い踊る住職や信者たちが、まるでゴスペルのようで、もしかしたらこの時代の仏教の説教シーンってこうだったのかもしれない、と楽しいとともにとても興味深く見ました。そして何より振付がいい!

歌舞伎なので、もちろん歌い踊ります。

現代の「歌舞伎」を十二分に堪能させてくれる作品だったと思います。

 

そしてその「歌舞伎」を成り立たせるのが「花形役者」です。

古田新太さんです。

初「いのうえ歌舞伎」ではありましたが、古田新太さんを舞台で拝見するのは、1997年朗読劇「ラブレターズ」から22年ぶり2回目です。

つまり主役で動く古田新太さんを見るのもはじめてでした。

舞台の古田新太さんはすごいよ、と聞いてはいたのですが、本当にすごかった。

この演目終わって直後のわたしの感想はただ

古田新太、カッコいい・・・!

でした。 

今回は賭博師で、軍師で、情に厚いのか薄いのか、やる気があるのかないのか、なんだか全然わからない人物なんですけど、そこが人間味があってチャーミング。

この作品を見る前に立て続けにゲキシネ「髑髏城の七人」の「上弦の月」「下弦の月」を見たのですが、両方とも主人公がチョロチョロ動くのが気になってしょうがなかったんですね。

でそういう演出になったのは、「大きな空間を立っているだけで埋められなかったから」ではないかと思ったのです。

今回わたしは3階席の後ろの方で見ていたのですが、それでも届く古田新太さんの存在感。

ピンスポットを受けて客席を振り返り、ただ立っているだけで魅せる。

無駄な動きが一切ないんです。というかあえて必要以上の動きはしていないような気がしました。

でも激しい殺陣のシーンももちろん魅せるし、ふざけているシーンも真剣なシーンも魅せる。

かつて宝塚歌劇団にいらっしゃった岸香織さんという方が著書の中で「これからの宝塚を背負ってくれそうなスターはいるか?」という質問にこう答えていらっしゃいました。

いつの時代にもスターはゴロゴロいます。(中略)花があって人気もなくてはならない。が、私に言わせると「花と人気だけでは三時間に及ぶステージは勤まらなぬ。」(中略)

演じて、見せて、決める、世界なのだ。

演じてウマイ人は多いが、見せ方が足りないと魅力は半減する。また、これぞタカラヅカの「決め」が弱いと、ライト消せない(かっこいい暗転)幕しまらない。

虹色の記憶―タカラヅカわたしの歩んだ40年 (中公文庫)

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「演じて、見せて、決める」

まさしく古田新太さんがそれでした。

この人が振り返り立っているだけで、幕を閉められるんです。

そしてドタバタと忙しく、ある意味見づらい、このなんでもない喜劇を最後に「なんかいいもの見た、かも」と思わせるのです。

古田新太さんは間違いなく本物の「花形役者」でした。

 

今回そのバディ役だった池田成志さんはなんとも言えない役を巧妙に軽く演じていらしてさすがでしたし、高田聖子さんはバシッと場面を締めてくれていました。

なにより妖願寺の住職二人組(粟根まことさん&右近健一さん)がいい。

ストーリーの中心は清野菜名ちゃんにあって、彼女にくっついている須賀健太くんや、彼女を追う早乙女太一くんがどうしてもフューチャーされます。

清野菜名ちゃんは身体能力が高くて、動きも演技も魅せてくれましたし、須賀健太くんは「上弦の月」で気になった声もそれほど気にならず、出すぎず引きすぎないいい演技でした。

そして早乙女太一くんの「うまくしゃべれない」役づくりはイマイチだったものの、もはやアートパフォーマンスのような殺陣は圧巻!

けれどやはり三人とも若い。もちろんそれがいい。

そしてその三人の若さに対比するのが妖願寺シーンの安定感なんですよ。

お二人の役者としてのスキルの安定感。セリフが聞きやすい。物語をしっかり支え、進める安心感と面白さ。

花形役者がいて、脇をしっかりしめる役者がいて、本当に魅力的な劇団だなと思いました。

この演目自体は、それこそ「髑髏城の七人」のようにもっと進化できると思います。

ぜひ進化し、再演されるときがきたら、今度は1階席で古田新太さんのオーラを感じてみたいものです。