こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

カリギュラのテレビ放映の感想。

昨年度、最もチケットが獲り辛かった作品がwowwowで放映されたので、録画してもらってので、ようやく見る。

1回見ただけでは、到底「分かった」なんて言えない、難解という言葉が正しいのかどうかは分からないけど、とりあえず、多分見るたびに違うことを思いそうな、そんな作品だった。

何より、蜷川先生の「気合い」みたいなものをビシビシ感じる。
特に、雷光から入るいつもの「一瞬にして観客の気持ちを引き込む」オープニング演出も見事だったけれども、一場から二場に移った瞬間、カラフルな蛍光ライトで飾られたセットが点等して、そこで、心底やられてしまった。

蜷川先生、やっぱり鬼才だ。凄すぎる。

もうそのセットが、カレコレ宝塚ファン時代も含めると20年近く、あれこれ舞台を見ている身だけど、もうど真ん中、というか、このセットどうしようもなく好きだ、このセットだけでも生で見たかった、と思わずにいられなかった。
セットや衣装のバランスを見ても、私はそれほど蜷川作品を見てはいないけれども、それでも今まで見た作品の中では、一線を画す傑出の出来で、それだけでもこの作品に対する並々ならない蜷川先生の情熱を感じる。

カリギュラローマ皇帝で、その狂気と独裁の政治が始まったところから暗殺されるまでを描いている。カリギュラが、どうしてそうなったのか、というのは絶対的に誰にも分からなく、本当に狂っていたのか、そうではなかったのか、それさえも曖昧である。戯曲もそのように彼を描いている。だから、この役を作りあげるのは、並大抵のことではない。
そして、その彼に翻弄される愚かで卑しい元老院たちはともかく、彼と心のヒダを合わせ、それでも自分の世界に生きるシピオンやセゾニアなどを作り上げるのも、本当に難しかっただろうなと思う。

主演5人の座談会で、シピオンを演じた勝地涼が、意味が分からないまま最初セリフを言っていた、と言っていたけど、そうなんだろうなあ、と思ったし、そして、それが役者、ひいては毎日演劇に携わるものだけが得ることが出来る贅沢だなあと改めて思うのである。

分からないまま進む芝居が、あるとき分かる瞬間。
ああ、そうか、と何かが自分に落ちてくる瞬間。
そして、その瞬間を経て、また進化する役者を見ながら、光を変え、変わる事により、また役者の表現も変わり、分からなくなり分かる、ということを繰り返す快楽。

今更ながら、あのエジンバラで、私が過ごさせてもらった時の贅沢さを思い出した。

カリギュラに取り付かれたような小栗旬の演技は、今までのメールシリーズとは違って、余裕はなく、だから魅せる芝居かというと、そこまでは行っていない。けれども、今彼が作り上げられる最高のものであることは間違いなく、今、だからこそだせる凄絶な色気に圧倒された。

恐らく一つとして同じではなかったステージで、だから、日々違うカリギュラがそこにあって、その違いを感じることで、よりこの世界を深く感じることが出来ただろうなと思うと、久々に演劇、というものに再び身を投じたいと思わずにはいられなかったし、演劇の魅力というものを、これ以上なく感じる舞台だったろうなと思うと、返す返す生で見れなかったのが残念だ。

役者陣は全員好演、としかいいようのない演技だったけれども、その中でも、物静かな情熱が際立ったケレアの長谷川博己と、誰もが理屈で生きるなか、ただシンプルに生きていたエリコンを演じた横田栄司が光っていた。