こんなことを思ったり。ぼちぼちかんげき。

保護猫と同居人と暮らすアラフィフがビンボーと戦いながら、観劇したものなんかを感激しながら記録。

我が心の歌舞伎座

13歳の頃の宝塚歌劇にはじまって、そこから私の人生は劇場に行くことが生活の一部になった。だから、入った瞬間にああ、この劇場好きだなあ、と感じることがある。
歌舞伎座もその一つだった。
どこか懐かしい空気。非日常と日常の解け合った雰囲気。様々な思いが優しく住み着いているような雰囲気。
ああ、いい劇場だなあ、と思った。

私が初めて歌舞伎座に入ったのは、ついこの間、2004年のこと。だから、私は歌舞伎座に親しんでいたわけでも、ましてや歌舞伎ファンでもない。機会があれば楽しく観劇する程度の歌舞伎とのお付き合い。
けれど、そんな私が見ても、このドキュメンタリーはしみじみと、いい作品だった。
舞台の魅力、色んな人が係わり、思いを乗せてそこに出来るもの、ということがじんわりと押し寄せてくる。役者、裏方、関係者、そして、観客、それら全てが揃って舞台は生まれるのだということを、そして、それらが集結する場所としての「劇場」だということを感じて、ただ呆然と涙した。

ただ、それらの中心にあるのは歌舞伎座では歌舞伎で、歌舞伎役者だから、歌舞伎役者の方のエピソードが中心となってドキュメンタリーは進む。その中で個人的に心に残ったのが、まず勘三郎さんのお話。

松竹の劇場スタッフだったおばさまに子供の頃、よく遊んで頂いたとのこと。その方がお勤めあげられてから、一度舞台にいらしてと勘三郎さんがお声掛けしたら、もう行けないと仰ったのだという。それでも勘三郎さんは車を差し向けて無理矢理きて頂いたら、とても嬉しそうで、その後病気でなくなられたのだけれど、その方のご親戚の方から、とても心に残る1日だったと言っていた、というお手紙が勘三郎さんに届いたのだという。舞台は役者や裏方だけでは出来ない、そういうことをしみじみ感じた。

もう一つが、梅玉さんのお話。

養父の歌右衛門さんの納骨の日、最後に歌舞伎座を見せようとお骨を胸に歌舞伎座へ赴いたら、大道具さんが、歌右衛門さんの大好きだった「京鹿子娘道成寺」のセットを大道具さんが用意してくれて、客席には大向うさんもいらして屋号をかけてくださったのだという。本当に舞台とは、観客もいて、それで一つなのだということを感じ、観客として劇場にいる身としては本当に心打たれた。

じんわりとした感動に包まれながら、映画館を後にしたら、そこにはもう「歌舞伎座」のない空間が目に入る。取り戻せない風景。胸がつまった。